中国の「犬肉祭り」に思うこと   古沢襄

ロイター・コラムでKim Kyung-Hoon氏が伝えた中国玉林市の犬肉レストラン。


[玉林(中国)25日 ロイター]ハンマーで殴られて気絶させられ、絞め殺される犬たち。その後、丸焼きにされ、吊るされた状態で店頭などに並ぶ。この光景は、中国南部の広西チワン族自治区玉林市では、夏の「風物詩」となっている。


「犬肉祭り」はこの5年ほどの間で、中国国内でますます物議を醸している。愛犬バロンは家族の一員、家族を食べることなど思いもよらない。こんなに可愛くて忠実な家族を食べるのは人食い人種ではないか。


縄文人は野山を駆け巡って狩りをする時に犬は友として扱った。しかし大陸から来た弥生人たちは農耕を主としたから犬の力を借りない。食犬の風習は弥生人が持ち込んだものであろう。赤犬は美味しいとまで言った。


「犬を食べるのと、牛や豚や羊など他の家畜を食べるのと何が違うんだ」。地元住民のニンさんはこのように話す。


ニンさんには、玉林市郊外の美しい農家で出会った。家族や友人と共に、この「伝統的なごちそう」を食べるために当地を訪れたという。犬肉は豚肉と野菜、そして地元で作られたライチ酒と一緒に出される。


写真は撮らせてくれなかったニンさんだが、「皆と同じように、自分も子供のころに犬を飼っていた。私たちはペットの犬と食用の犬を区別している。犬肉は日常の食卓にのぼるものではない。大半の人は年に数回、特別な日に食べるだけだ」と説明した。


多くの住民は、この伝統がメディアの報道によって誤って伝えられていると不満を口にした。玉林市を訪れる前、私は同僚から、こうした感情から写真を撮るのは難しいかもしれないと言われていた。


しかし、私と同僚のテレビカメラマンは、街を案内してくれるという地元住民に会うことができた。


彼は初めに、私たちを小さな犬肉レストランに連れて行った。昼時は過ぎていたが、店は客でにぎわっていた。


「犬肉はおいしいし、体にいい。なぜ中国人はこの伝統をやめなくてはいけないのか」と多くの客が言った。


文化の多様性という点から言えば、彼らの主張も無理からぬことだと言えるかもしれない。だが、犬肉処理場と市場を見て、私は考え直した。


暗くて粗末な処理場の裏通りでは、耳をつんざく犬の断末魔の叫びが聞こえた。地面は血の海だった。そこには、殺された犬たちが積み上げられていた。


犬肉処理者と販売者は、写真を撮ろうとする者には誰に対してもとても攻撃的な態度を見せた。彼らは私たちに罵声を浴びせ、犬肉処理者の1人は大きな木の棒で私たちを追い払おうとした。


動物の権利に対するこのような彼らの無知と虐待が、インターネット上で多くの中国人を、犬肉祭り廃止を求める署名へと駆り立てた。


生きた犬が売買される市場とは、かくも悲惨なものなのか。雑種の、たいていは薄茶色と黒色の犬が、小さなおりに目一杯詰め込まれている。玉林市の住民たちは、こうした毛色の犬の方が他の犬よりもおいしいと好むという。


私は写真を撮る間、とても慎重にならざるを得なかった。


一部の犬は見るからに病気で弱っていて、ひどい扱いを受けていたように見えた。暑さにやられ、恐怖におびえた犬たちは、狭いおりのなかで息を切らしていた。業者は犬を荷物のように扱っていた。


この市場は、犬肉食を支持する人たちと動物愛護活動家との戦いの場となっている。


数十人の動物愛護活動家がやって来て、犬を助けるべく業者から買い取ろうとしている。しかし最初に活動家が直面するのは、犬肉食を支持する一部の怒った住民からの反発だ。犬肉祭りが始まった朝、活動家たちは市庁舎前に反対の横断幕を掲げた。


犬肉を食べることの是非について、私は判断を差し控えたい。ただ私がつらいのは、犬たちが食肉処理されるひどい環境と、殺される前の扱われ方だ。犬が人間の最良の友だと思おうが思うまいが、このような扱いを受けて当然だとは思わないだろう。(ロイター)

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| 古澤襄 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







一日置きには風呂に入りたい   古沢襄

風呂場で転んだ後遺症があったので、介護付きで週に一回の入浴にしていたが、夏ともなると一日置きには風呂に入りたい。


風呂場の水回りを思い切って改めた。風呂場のタイルにも滑り止めの工夫をした。


入浴すると血管が広がるせいか、血圧が目立って低くなる。


今週は八日(日)164〜69、九日(月)145〜69、十日(火)151〜69、十一日(水)172〜81、十二日(木)174〜75と血圧が高い。明日は介護なしで風呂に入るつもり。


血圧降下の薬は朝晩に二回は飲んでいる。さて、どうなるか。


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| 古澤襄 | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







東北の香り 山ウドとシドケ   古沢襄

岩手の菩提寺の和尚さんが、山ウドとシドケをどっさり送ってくれた。早速山ウドの味噌汁、シドケのお浸し・・東北の香りを堪能した。
 

山ウドのえぐい食感は普通のウドとは違う。山ウドにのめり込むと普通のウドはダイコンのような感触。


山ウドの味噌汁の後は、米酢と白味噌であえた山ウドの酢の物。酒のつまみとしても絶品である。


こんな美味しいものを送って貰うと、お返しに苦労する。思いつくのは茨城メロン。それとも美味しい静岡茶でも送ろうか・・。


腰痛持ちだから、すぐ動けないのが難点。だが喜んで貰えるものを、あれこれ考えるのは楽しい。


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| 古澤襄 | 11:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







「母の日」や「父の日」も良いが・・   古沢襄

五月八日は「母の日」。五月の第二日曜日が母への感謝を表す日だという。長女が昼頃やってきて、午後、老人ホームにいる母を訪ねた。


「父の日」もあるのだろうか。いずれも外来の行事だから戦後流行ってきた。六月の第三日曜日だという。核家族化で親と子の関係が希薄になりつつある戦後だから好ましいが、大都会では知られていても地方ではまだ広まっていない。


母の日はカーネーション、父の日はバラを贈るのだという。バラを貰うよりは、四合ビンの銘酒でも貰った方が嬉しいのではないか。


「母の日」や「父の日」も良いが、猛暑がくる前に一家・眷属が揃って中華料理を食べに行くのも良いではないか。わが家は五月二十五日に浅草のビューホテルで中華を食べる予約をとった。


日本人にとっては、お盆で里帰りして先祖の墓参りする方が性の合う。先祖の墓が雑草だらけで何が母の日、父の日なのだろう。


お盆がくると、一家で「お焼き」を作って、亡くなった人たちを弔う美風が廃れたように思う。それが敗戦後の現実だ。


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| 古澤襄 | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







粗食こそが健康維持の要諦   古沢襄

朝五時、バロンを連れて散歩に出る。気持ちがいい。首に手ぬぐい、それに早朝だから農家のおっさんに間違えられた。


最近は入浴すると調子が落ちる。長湯している覚えはない。だから世間でいう「湯あたり」ではない。八十四歳、体力が落ちているせいなのだろう。


昨日は湯から出て居間の椅子でいい気分。水を飲んで数分の居眠り。夕食は冷蔵庫をみたら次女がタレ付きのウナギを置いていってくれた。残りご飯にウナギ。


運動不足なのに、こんなに栄養をつけていいものか。そうは思うもののウナギは好物だからやめられない。温めて食べた。最近は市販で付いてくるタレの味も良くなった。


しかし反省もある。また「もりソバ」とカリカリ梅の粗食にしようかと・・。粗食は万病の薬。


体力が落ちたといっても、それで栄養のあるものをガバガバ食べればいいというものではない。それを吸収出来なければ、むしろ害になる。下痢をしない用心が必要。


このところ二階の書斎から数冊の本を毎日持ってきている。午前中は居眠りの間に読書。ウイキなどネット情報のアラ探しが楽しい。読書の間に居眠りではない。


老齢のせいか夕暮れ時の混む時にはマイカーを使わない。早朝運転がもっぱら。今朝は自動車税をフアミリーマートで納める。昼食用にザル蕎麦を買った。


買ってからきょうは長女がくると思いだした。長女が昼用の食べ物を持ってくるかもしれない。まあ、いいさ、その時はザル蕎麦を夜食に回す。これこそ「粗食」。


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| 古澤襄 | 11:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







芸能とスポーツで一億総ハクチ化   古沢襄

入浴したせいか、やたらに眠い。稲庭ウドンをうでて、カレーでもかけて即席の夕食をかき込んだら寝るつもり。


もっとも夜八時前に寝てしまうと三時か四時には目が覚めてしまう。テレビやネットをつけてもドナルド・トランプのばか話に付き合うつもりはないし、秘密のヴェールに包まれた北朝鮮の党大会にも関心がない。


いつも入浴日の翌日・日曜日朝の過ごし方には苦労する。結局は居間の椅子で居眠り、八時前には目が覚めてNHKの朝ドラを観るところから一日が始まる。


最近は民間放送にいい番組が少ない。いきおいNHKばかり観ることになる。


歌と踊り、スポーツ放送、芸能番組とスポーツばかりでは一億総ハクチ化になってしまう。これでは次の世代を担う若い人たちが可愛そうだ。


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| 古澤襄 | 18:23 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







日本最大の大断層系・中央構造線   古沢襄

午前三時半、強い南風が雨戸を揺らしているので目が覚めた。茨城メロンを食べながら居間で様子をみる。血圧は143〜77,高いが数日前までは150以上で下がらなかったから少し改善された。足の浮腫は変わらない。


体温は36・5度で平熱を維持し腰痛は治まっている。


九州熊本を中心とする地震が頻発しているが、私が気になるのは長野県から関東に伸びている日本最大の大断層系・中央構造線。


西南日本を縦断する大断層系・中央構造線は1885年(明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名された。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。一部は活断層。


構造線に直接接している岩石は、内帯側はジュラ紀の付加複合体が白亜紀に高温低圧型変成を受けた領家変成帯、外帯側は白亜紀に低温高圧型変成を受けた三波川変成帯である。


領家変成帯には、白亜紀の花崗岩も大量に見られる。高温低圧型の領家変成帯と低温高圧型の三波川変成帯は、白亜紀の変成当時は離れて存在していたはずだが、中央構造線の活動により大きくずれ動いて接するようになった。


糸魚川静岡構造線(糸静線)より東のフォッサマグナ地域では、フォッサマグナの海を埋めた新第三紀の堆積岩に覆われているが、第四紀に大きく隆起している関東山地では古第三紀以前の基盤岩が露出し、その北縁の群馬県下仁田町に中央構造線が露出している。


もっと分かり安く言うと、北アルプス山系が出来たことと関係がある。


山脈が出来たのは、第三紀で、活動期は2つに分けられる。最初の隆起活動は250万年前から150万年前に活発で、次の活動期は80万年前以降。


北アルプス山系にどのような力が加わって隆起が起こったのか。その力が大きければ大きいほど、日本列島に及ぼす影響は大きい。


■断層が動く地震で日本最大の大断層系・中央構造線(2016.05.05 Thursday name : kajikablog)


先月22日の長野県北部を震源とする地震で断層系と地震の因果関係をあらためて知った。専門家は糸魚川静岡構造線(糸静線)の北部で断層が動いたと指摘している。


アルプスの沿って日本中央部を縦断する糸魚川静岡構造線のことは、かねてから地震と断層に関心を持つ者には知られていたが、この断層系が一斉に動くのは歴史上ないとして私たちは軽くみる傾向があるのではないか。


日本列島で関東から九州へ連なる最大の大断層系・中央構造線のことも一般にはあまり知られていない。しかしウイキペデイアによると、有史以来、この中央構造線の線上でマグニチュード7・0クラスの大地震が発生している。もちろん関東から九州へ連なる大断層系が一斉に動くことはなかった。


しかし私たちは学説上のこととして片づけずに、基礎知識として中央構造線のことを知っておく必要があるのではないか。日本列島を縦断する糸魚川静岡構造線の北部で断層が動いたことは、将来、列島横断の大断層系・中央構造線でも断層が動く可能性を示唆している。


とくに慶長年間の1596年に発生したマグニチュード7・0の慶長伊予国地震は、3日後に豊予海峡を挟んで対岸の大分でマグニチュード7・0〜7・8慶長豊後地震に波及し、さらに翌日にマグニチュード7・0〜7・1の慶長伏見大地震となっている。広域型の連動型地震の怖ろしさは言うまでもない。


20世紀以降、中央構造線で発生した地震は6件。


1916年(大正5年) 新居浜付近 – M 5.7
1916年(大正5年) 熊本県中部 – M 6.3
1975年(昭和50年) 阿蘇北部 – M 6.1
1975年(昭和50年) 大分県中部 – M 6.4
1979年(昭和54年)7月13日 伊予灘 – M 6.1
1983年(昭和58年)3月16日 静岡県西部 – M 5.9


やはり中央構造線上で断層が動くとマグニチュード6〜7クラスの大地震が発生しているから軽視するのは禁物である。


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| 古澤襄 | 04:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







日本の美風 優しい心根   古沢襄

きょうが立夏なのか定かでないが、暑さしのぎにうなぎの重箱でも食べようかと考えている。先が短い身だから、この程度の贅沢はお許しあれ。


次女がきて強風で荒れた庭の片付けをしてくれた。二本ある赤いバラの木は香りが高くて大切にしていたが、そのうちの一本が強風に煽られて倒れた。


支え棒で立て直したり、いろいろやってみたがうまくいかない。それを次女は細い紐で結びつけて元通りにしてくれた。


庭の雑草も抜いてきれいにしてくれた。


自分の娘ながら、その優しい心根にホロリとする。「連休明けにママを連れて、浅草の中華料理を食べにいこう」と思いだしたように言う。


認知症で老人ホームにいる妻を迎えに行ってくれるそうだ。


家族が支え合って生きる日本の美風は健在である。理屈ではない、優しい心根があるか、どうかであろう。


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| 古澤襄 | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







断層が動く地震で日本最大の大断層系・中央構造線(再掲)  古澤襄

先月22日の長野県北部を震源とする地震で断層系と地震の因果関係をあらためて知った。専門家は糸魚川静岡構造線(糸静線)の北部で断層が動いたと指摘している。


アルプスの沿って日本中央部を縦断する糸魚川静岡構造線のことは、かねてから地震と断層に関心を持つ者には知られていたが、この断層系が一斉に動くのは歴史上ないとして私たちは軽くみる傾向があるのではないか。


日本列島で関東から九州へ連なる最大の大断層系・中央構造線のことも一般にはあまり知られていない。しかしウイキペデイアによると、有史以来、この中央構造線の線上でマグニチュード7・0クラスの大地震が発生している。もちろん関東から九州へ連なる大断層系が一斉に動くことはなかった。


しかし私たちは学説上のこととして片づけずに、基礎知識として中央構造線のことを知っておく必要があるのではないか。日本列島を縦断する糸魚川静岡構造線の北部で断層が動いたことは、将来、列島横断の大断層系・中央構造線でも断層が動く可能性を示唆している。


とくに慶長年間の1596年に発生したマグニチュード7・0の慶長伊予国地震は、3日後に豊予海峡を挟んで対岸の大分でマグニチュード7・0〜7・8慶長豊後地震に波及し、さらに翌日にマグニチュード7・0〜7・1の慶長伏見大地震となっている。広域型の連動型地震の怖ろしさは言うまでもない。


20世紀以降、中央構造線で発生した地震は6件。


1916年(大正5年) 新居浜付近 – M 5.7
 1916年(大正5年) 熊本県中部 – M 6.3
 1975年(昭和50年) 阿蘇北部 – M 6.1
 1975年(昭和50年) 大分県中部 – M 6.4
 1979年(昭和54年)7月13日 伊予灘 – M 6.1
 1983年(昭和58年)3月16日 静岡県西部 – M 5.9


やはり中央構造線上で断層が動くとマグニチュード6〜7クラスの大地震が発生しているから軽視するのは禁物である。


(中央構造線・大断層系の概要)


■関東から九州へ、西南日本を縦断する大断層系で、1885年(明治18年)にハインリッヒ・エドムント・ナウマンにより命名される。中央構造線を境に北側を西南日本内帯、南側を西南日本外帯と呼んで区別している。一部は活断層である。


構造線に直接接している岩石は、内帯側はジュラ紀の付加複合体が白亜紀に高温低圧型変成を受けた領家変成帯、外帯側は白亜紀に低温高圧型変成を受けた三波川変成帯である。


領家変成帯には、白亜紀の花崗岩も大量に見られる。高温低圧型の領家変成帯と低温高圧型の三波川変成帯は、白亜紀の変成当時は離れて存在していたはずだが、中央構造線の活動により大きくずれ動いて接するようになった。


糸魚川静岡構造線(糸静線)より東のフォッサマグナ地域では、フォッサマグナの海を埋めた新第三紀の堆積岩に覆われているが、第四紀に大きく隆起している関東山地では古第三紀以前の基盤岩が露出し、その北縁の群馬県下仁田町に中央構造線が露出している。


関東平野では新第三紀や第四紀の地層に覆われている。九州中部でも新第三紀後期以後の火山岩や阿蘇山をはじめとする現在の火山におおわれている。近畿南部から四国にかけては、中央構造線に沿って約360kmにわたり活動度の高い活断層(中央構造線断層帯)が見られ、要注意断層のひとつとされている。


■地震活動との関連=歴史時代以降の活動歴は、地震が活発な地域と比較すると少ないが、下記の様なマグニチュード(以下M)6 – 7クラスの地震が発生している。


■中央構造線断層帯=特に注目されている部分は、中央構造線断層帯として過去の活動時期の違いなどから、全体が6つの区間に分けられている。なお、糸魚川静岡構造線より東の地域での構造線の位置と太平洋まで延長するのかなど複数の見解があり、定まっていない。


1. 金剛山地東縁=金剛山地東縁の奈良県香芝市から五條市付近までの区間


最新の活動:約2,000年前以後、4世紀以前
 平均活動間隔:約2,000〜14,000年
1回のずれの量:1m程度(上下成分)


2. 和泉山脈南縁=和泉山脈南縁の奈良県五條市から和歌山市付近に至る区間


最新の活動:7世紀以後、9世紀以前
 平均活動間隔:約1,10〜?2,300年
1回のずれの量:4m程度(右横ずれ成分)


3. 紀淡海峡−鳴門海峡=和歌山市付近ないしその西側の紀淡海峡から鳴門海峡に至る区間


最新の活動:約3,100年前以後、約2,600年前以前
1回のずれの量:不明


4. 讃岐山脈南縁−石鎚山脈北縁東部=石鎚断層及びこれより東側の区間


最新の活動:16世紀
1回のずれの量:6-7m程度(右横ずれ成分)


5. 石鎚山脈北縁(岡村断層)=石鎚山脈北縁の岡村断層からなる区間


最新の活動:16世紀
1回のずれの量:6m程度(右横ずれ成分)


6. 石鎚山脈北縁西部−伊予灘=石鎚山脈北縁西部の川上断層から伊予灘の佐田岬北西沖に至る区間


最新の活動:16世紀
 平均活動間隔:約1,000〜2,900年
1回のずれの量:2-3m程度(右横ずれ成分)


■近世以前=715年 三河国・遠江国 – M 6.5 – 7.5


■慶長伊予・豊後・伏見地震(連動型地震を参照)=1596年9月1日、愛媛の中央構造線・川上断層セグメント内(震源については諸説ある)で慶長伊予地震(慶長伊予国地震)(M 7.0)が発生。3日後の9月4日には、豊予海峡を挟んで対岸の大分で慶長豊後地震(別府湾地震)(M 7.0〜7.8)が発生。 豊後地震の震源とされる別府湾−日出生断層帯は、中央構造線と連続あるいは交差している可能性がある。さらにその翌日の9月5日、これらの地震に誘発されたと考えられる慶長伏見地震(慶長伏見大地震)(M 7.0〜7.1)が京都で発生。有馬−高槻断層帯、或いは六甲−淡路断層帯における地震とみられる。


■近世・近代


1619年(元和5年) 八代 – M 6.0
1649年(慶安2年)3月13日 伊予灘 – M 7.0
1703年(元禄16年) 大分湯布院 – M 6.5
1718年(元禄16年) 三河、伊那遠山谷 – M 7.0
1723年(享保3年) 肥後 – M 6.5
1725年(享保10年) 高遠・諏訪 – M6.0〜6.5
1889年(明治22年) 熊本 – M 6.3
1894年(明治27年)・1895年(明治28年) 阿蘇 – M 6.3
1895年(明治28年)1月18日 茨城県南部 – M 7.2


■20世紀以降


1916年(大正5年) 新居浜付近 – M 5.7
1916年(大正5年) 熊本県中部 – M 6.3
1975年(昭和50年) 阿蘇北部 – M 6.1
1975年(昭和50年) 大分県中部 – M 6.4
1979年(昭和54年)7月13日 伊予灘 – M 6.1
1983年(昭和58年)3月16日 静岡県西部


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| 古澤襄 | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







ホットドッグ 山東料理の饅頭   古沢襄

また食べ物のことかと笑われそうだが、アメリカで一番美味しかったのは?と問われたら、ニューヨークの街角でパクついたホットドッグと答える。


あの味は忘れられない。


アメリカのホットドッグは、はさんだソーセージが大きくて両端からはみだしている。西洋カラシがきいているが、ひとつでは足りない。二本のホットドッグを食べて満足。


突然、思いだしたように言うことになってしまったが、ホットドッグが食べたくなって、ヘルパーさんの買い物ついでにホットドッグ用のパン二つと大きいソーセージを二本注文したところである。


アメリカ旅行で往生したのは、ステーキとは名ばかりのオージービーフ。塩とショウユ・ソースをかけて食べたが、一度で懲りた。それ以来、メキシコ料理ばかり食べた。


アングロサクソンは味めくら(味盲 みもう)という噂は聞いていた。


しかしニューヨークのホットドッグにお目にかかって、噂とは一人歩きするもので信用ならないと知った。


とは言うものの、世界で一番美味しい料理はやはり支那料理。北京料理、四川料理、広東料理など様々だが、私の”いちおし”は山東料理。北京料理の原型で『魯菜』という。

戦前は父と母に連れられて九段下にあった山東料理の店によく行った。料理も美味しいが、この店で女将さんが作ってくれた「饅頭」の美味しさが忘れられない。


饅頭はいまでも横浜の南京街でも売っている。だが山東料理の饅頭の味とは少し違う。甘みがない素朴な饅頭が山東料理。


東京がB29の大空襲で廃墟と化してしまったので、九段下の店も姿を消した。ネットで戦前の山東料理の店を探しているのだが・・。


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| 古澤襄 | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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