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西岡議長死去:評伝 「ミスター一徹」を悼む   岩見隆夫
新自由クラブの躍進を伝える第34回衆院選の速報を見る河野洋平氏(中央)と西岡武夫幹事長(左)と田川誠一氏=東京・永田町の同党本部で1976年12月5日 まさか、と耳を疑う訃報だった。もうひと花咲かすに違いない、それは多分、日本の政情不安に貴重な一石を投じることになるだろう、と確信に近いものを感じていたからである。

民主党代表選(8月29日)の直後、西岡武夫参院議長から電話をもらった。小沢一郎元代表に代表選出馬を要請されて快諾、しかし、土壇場でつぶれた経過を細かく語ったあと、

「自分だけでもやる気だったが、さすがにね、時間がなかった。次は命懸けでやりますよ」

と意外な話である。政界最高位の議長から首相に転じた前例はないが、西岡さんの声にはまったく迷いがない。実際はそうもいくまい、いや、先行き不透明な乱世だ、ひょっとして<西岡首相>も、と考えたりしたが、とにかく西岡さんらしい、と思った。

ひどく思い詰めているのも伝わってきた。40年を超える政治家生活がいつもそうだった。だが、今回は並でない。

「西岡さん、これ書いてもいいの」
「どうぞ、どうぞ、ハッハッハッハ……」と明るく笑って電話を切った。もうひと働きしてほしかったのに、と痛切に思う。

1963年に初当選した時、母上のハルさん(元参院議員)と一緒に登院して、マスコミから「過保護だ」とからかわれたことがある。だが、のちに竹下登元首相が、

「あれは西岡君一流の親孝行なんだ。彼は何事にも思い詰めるところがあったから」と語り、先輩の目にも思い詰め型と映っていた。

そんな性癖、言動を政界は奇人変人扱いにしがちだった。しかし、私は全くそう思わない。右顧左眄(さべん)タイプが多いこの世界で、西岡さんはいつもいちずにきまじめに沈思し、答えが出たら行動に出た。数少ない貴重な資質である。

西岡さんと長崎・海星中学の同級生で長い付き合いだった歌手の美輪明宏さんが、ある時、

「彼の文部政務次官のころの横紙破りなところや、新自由クラブを作った荒々しさ、その新自クにさっさと三くだり半をつきつけ、古巣に戻ったあたりの決断力ときかん気の強さに、われながら拍手喝采を送ったものです」

と旧友をほめたたえたことがあった。毒舌家の美輪さんにしては珍しいことで、

「わたしはとにかく純粋な人間が好きなの」とも言っていた。ただ、新自クの時はいささか事情が違う。ロッキード政局のさなか、河野洋平さん(前衆院議長)ら6人衆が旗揚げを表明したのは76年6月25日だが、その朝、打ちそろってマスコミの前に並ぼうとしたが、西岡さんだけ行方がわからず、騒動になった。

私も取材上、方々を探し回ったが、議員宿舎で布団をかぶって寝ていた。長崎の母上から思いとどまるよう朝まで説得されたらしい、ということだった。悩みの時もあったのだ。

もう一つ、私の好きな話がある。早大雄弁会の幹事長を務めたころ、幹事会招集の張り紙を書くたび、西岡さんは新聞紙大の洋紙に、学生服の内ポケットから矢立てを取り出すと、毛筆でさらさらとしたためた。大きな字で、達筆だった。後輩が、

「うまいもんですねえ」と声をかけると、

「君ねえ、政治家というものは、筆ぐらい使いこなせなくちゃあだめなんだよ」とまじめな顔で答えたという。すでに政治家の気分でいたのだ。これも西岡さんらしい。ミスター一徹者の死が惜しい、と心底思う。(毎日)

杜父魚文庫
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