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「ひとり芝居」中国での主宰、主演は誰? 宮崎正弘
「グランパ」と国民から親しまれ、そして党内からは総スカン。「政治改革を実行しない限り、われわれが築き上げてきた経済成長と繁栄を、一気に失うことになるかもしれない」。

この発言をしたのは温家宝首相である。2010年8月、深せんで、である。同市はいまや人口一千万人。とう小平の南巡講話の出発点でもある。

この「民主化」ともとれる大胆な発言をつぎつぎと繰り出す温家宝首相は、その後の米CNNニュース特別番組のなかで敷衍し、「もっと言論の自由と大胆な人権の確立が急務だ」とのべた。

「あらゆる努力をして原因の究明をはかる」と新幹線事故現場で述べたのも、温家宝首相である。11年7月28日、温州南駅に近い事故現場。

証拠車両が埋められ、あまりのことにネット世論が沸騰して、掘り返されて、補償金をかさ上げして犠牲者遺族を黙らせ、ネット世論をじわりと真綿で首を絞めるように、いま中国中央宣伝部は日本の『防衛白書』非難とすりかえ、この未曾有の窮地から脱しようとしている。

改革を訴える温家宝は共産党にとっては邪魔な存在となりつつある。となれば、温家宝とは一体なにもので、なにをしようとしたのか。

温家宝は10年四月に『人民日報』に寄稿して「貴州省を胡耀邦と視察して歩いて、改革への希望に満ちていた当時を懐かしく思い出す」と胡耀邦を久しぶりに持ち上げた。「胡耀邦は地元のリーダーの説明をまったく信用しなかった」とも書いた。

若者らは、「趙紫陽路線へ舵取りを切るか」と期待した。この発言にかちんときたのは党内守旧派ばかりではなかった。胡耀邦が貴州を視察した折の省党委員会書記は胡錦涛だったのだ。(胡錦涛は1986年から貴州省書記)


▲党の支配層は温家宝を憎んでさえいる

そもそも1989年五月、天安門広場の学生集会に忽然と現れて「くるのが遅かった」と学生を鼓舞した趙紫陽の隣に立っているのが若き日の温家宝だった。

しかし、温家宝はメッセージを発信する能力に優れても、政治力がなかった。党内に孤立していた。

温家宝はSARS災禍のとき、まっさきに病院を見舞い、四川省地震でも真っ先に現場へ飛び、長沙が大雪に孤立したときも、甘粛省の玉樹村地震でも、いつも一番先に現場に現れ叱咤激励し、党改革、民主化を訴えた。
 
国民の人気はあがり、温じいさん、と暖かく迎えられるようになった。そして、その毎に共産党は温家宝を疎ましい存在として扱い、冷笑し、冷遇し、さらには『彼を黙らせろ』として、党内で温家宝のポジションはないも同然、つまり党内の影響力が失せてしまった。

温家宝の序列は党内第三位。国務院総理であるにもかかわらず、党は温家宝に『民主化の旗を振らせるだけ、一切実践はしない』。あたかも政治宣伝のための人形のごとし。

中国の指揮系統では、温家宝は国務院を率いるが、この行政のトップには軍を動員する命令権がない。

だから四川省の現場で軍の指揮を執れず、また原因を徹底的に究明すると吠えても、警察も検察も公安も、投げやりで中途半端な捜査をジェスチャーでやったあとは、ほおかむり、責任者の追求はうやむやとなった。

かくして温家宝は胡耀邦―趙紫陽の敷いた改革路線を鮮明にすることによって、国民の喝采をあびる一方で執権党の中国共産党幹部から疎外されるという大きな政治リスクを背負っている。
    
杜父魚文庫
| 宮崎正弘 | 13:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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