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江戸の子育てに学ぶ 伊勢雅臣
■1.「子どもの天国」と「最も教育の進んだ国民」

「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」

明治10(1877 )年に来日して、大森貝塚を発見したアメリカの動物学者エドワード・モースの言葉である。その一例としてモースは祭りの光景を次のように記している。

祭りには、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った山車(だし)を、子どもたちが太鼓を叩きながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子も小さな車を引いてまわる。日本は確かに子どもの天国である。

遊びだけではない。子供の教育についても、欧米人は目を見張った。ロシアの海軍少佐ゴロブニンは千島列島測量中に捕らえられ、文化8(1811)年から10 (1813)年まで、松前藩で捕虜生活を送ったが、その手記の中で
こう記している。

<日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持ってゐる。ごく幼い頃から読み書き、法制、国史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。しかし一等大切な点は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、礼儀を極めて巧に教え込むこと・・・>として、「日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である」とまで
述べている。

子供たちを楽しく遊ばせながらも、きちんとした学力や礼儀、忍耐などを教え込む。教育問題に悩む現代日本人から見れば、魔法のような子育てを、我々の御先祖様たちは実現していたのである。

■2.「おぢいさ、寝なんか」

当時の日本人がどのように子育てをしていたのか、貴重な記録がある。桑名藩の下級武士・渡邊勝之助が天保10 (1839)年に藩の飛び地である越後・柏崎に赴任した際、満2歳2ヶ月の長男・鐐之助(りょうのすけ)を祖父母の渡邊平太夫・夫婦に預けていった。その平太夫が孫の成育状況を9年間、柏崎の勝之助のもとに書き送り続けたのが『桑名日記』である。

鐐之助は、いつも祖母か祖父と添い寝をしていた。現代のように無理に一人で寝かせようとはしていない。天保12年9月7日の日記には、およそ満3歳9ヶ月の鐐之助が「おぢいさ、寝なんか」と誘って、「おじいさ、むかし語ろうか」と言って自分から作り話をした後、「サアこんどは、おじいさの番だ」と話をせがんでいる様子が描かれている。

同年12月19日には、「抱いてねると、おじいさ百人一首よみなへといふ。天智天皇秋の田のと読んでやると、その通り鐐も読む」とある。

こうして祖父や祖母に抱かれて寝るのが、鐐之助にとって、満ち足りた幸せな時間だったのだろう。このようにして肉親の愛情を直接肌身で感じることが、子供の成長にとって大事な基盤だったのだろう。

■3.「おれもはしで食べやう」

生活習慣のしつけについては、どうだろうか。箸の使い方については、天保10年9月5日にこう記されている。

<この間新地の鐵坊がきて箸で食べる故、おれもはしで食べやうといふてさじを止め箸にて食べ、それから毎日箸でばかり食べる。>

洗顔や歯磨きについては、同月7日にこう記している。

<歯を塩にてみがけば、おれにもくんなへという。すこし手の平へのせてやる。いっしょになって井戸端へゆき水をくんでやると、口をそゝぐやら、顔をあらふやらお爺のまねをする。>

満2歳8ヶ月の頃だから、現代に比較すれば、かなり早くから箸を使い出したり、洗顔、歯磨きを始めている。しかし、それも意識的に教え込まれたものではなく、鐵坊という年の近い子供の真似をして箸を使い出したり、祖父の真似をして歯磨き、洗顔を始めている。鐐之助の得意げな顔が、目に浮かぶようである。

子供は何でも年長者の真似をしたがるが、それは成長の原動力なのであろう。子供にはそれぞれ成長の時期があり、内発的に年長者の真似を始める時期をとらえて、習慣を身につけさせる、というのが、江戸の子育てだった。

■4.「灸をすえる」

鐐之助が祖父母を困らせることもよくあった。「困った」という記述で最も多いのが、「大口」と「わやく」である。大口は、子供が偉そうな口をきいたり、みだらなことを言うこと。わやくは、無茶を言うことで
ある。天保10年8月22日の日記にはこうある。

<日に増し、べろはまわる。わやくもする。あまりわるさをするときは、越後へやってしまふというと、もう止める、止めるといふゆへ、そんならおとなしくしやれという内、またにこにこしながらわるさをする。>

越後とは父母のいる所だが、すでに祖父母との生活に慣れた鐐之助にとっては、知らない所に連れて行かれる、という事だったのだろう。

また、3ヶ月ほど後には、近所のおばさんがお触れを持ってきたのを鐐之助が握って放さず、しわくちゃにするので、祖母が無理にとりあげた所、大だだを起こした。

本当に悪さをした時の唯一の対処方法は、灸をすえることである。祖父は仕事で外出していたので、祖母と10歳ほど年上の姉・おなかが二人がかりで腹に灸をすえようとしたが、力があってうまくできない。ようやく一つすえたが、それでも、まだお触れをよこせとだだをこねている。

しかし、灸はさすがに効果があったようで、その後は「灸をすえる」というと、悪さをやめている。

「困った」というのは、可愛い孫が悪さをしないように仕向けたいのに、なかなかできない、という愛情と困惑の入り交じった感情であろう。子供もそんな愛情と困惑を感じ取っていくうちに、だんだんと肉親を困らせないようにしよう、と成長していく。

■5.「おれもおかかのところへ、じじ(字)書いてあげやうねべ」

平太夫はいつも日記や手紙を書いていたし、また柏崎からの鐐之助の親からの手紙を読んできかせていたので、鐐之助も自然に読み書きに関心を持つようになった。

満3歳の頃には、平太夫が日記を書くそばで「おれもおかかのところへ、じじ(字)書いてあげやうねべ」と言って、何やら紙に墨をつけている様が記されている。

満7歳になると、手習いの師匠のところに通うようになった。何人かの手習いの生徒がいるなかで、朝早く行くと今日は一番だったと喜んだり、手習いが終わると子供どうしで、初茸採りに行ったりしている。

ある日は夕方に数人の男の子たちを連れてきて、寺子屋の真似をして、習字をするから、墨をすってくれとか、紙を出してくれ、などと大騒ぎをし、半紙に一字ずつ書いては近所のおじさんの家まで見せに行ったりしている。

手習いも、このような子供同士の楽しみに満ちたものであった。

■6.「我に『育てよ』との天命なり」

冒頭で欧米からの来訪者が「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、深い注意が払われる国はない」と言い、同時に「日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持ってゐる」という観察を述べていることを紹介した。鐐之助が育てられた過程は、まさにこの観察と一致している。

こうした独特の子育ては自然に生まれたものではなく、江戸社会の中で、多くの識者が子育ての経験知を蓄積し、かつ広めてきた結果である。

たとえば、石田梅岩を始祖とする石門心学は、18世紀半ばには全国で教化活動を展開し、日常生活を送る上での心得を熱心に説いた。その中には、子育ての心得も含まれていた。

石田梅岩の門下に、慈音尼蒹葭(じおんに・けんか)という尼僧がいた。慈音尼は、我が子を心を尽くして育てるのが人の道である、と説いた。

自分の子だからと思って、愛に溺れて心を尽くさなければ、天命に背き、災いのもとになる、「わが子なりと思い、勝手するは、人欲の私なり」「わが子と雖(いえど)も天の子にして、我に『育てよ』との天命なり。天命を重んずる心からは、子に慈愛をつくさずんばあるべからず」と教えた。

自分が作った子供なのだから、溺愛しようが放任しようが、自分の勝手である、というのは、誤った私心である。子供は天から「育てよ」と命ぜられた「授かりもの」であり、親としてその天命を果たすのが人としての道である、というのである。

■7.「随分可愛がり、愛するのがよい」

石門心学の普及で中心的な役割を果たした手島堵庵(てじま・とあん)は教化対象を子供にまで広げた人物である。宝暦9(1759)年に著した『我つえ』では、あまりに厳しく育てることは良くないとして、

<どうしてかというと、「愛しているから、このように厳しくするのだ」と思う子は少ないものだ。結局、ひがむようになり、恩愛が失われ、親子の間が疎遠になり、不孝者になることが多い。随分可愛がり、愛するのがよい。

しかし幼少の時から、嘘や偽りを言うこと、この一事だけは決してさせてはいけない。幼いときは何をしてもかわいいから、嘘を言っても知恵があると思い、褒めそやすようなことは大変よくないことだ。小児の時から、嘘だけは、絶対に悪いことだと思うようにさせなさい。>

江戸時代後期の国学者・橘守部(たちばな・もりべ)は、文政11(1828)年に著した『侍問雑記』で、「子は手塩にかけて親しく養ってこそ親しみも増し、親のほうから近付いて睦まじくしてこそ尊ばれもする」と書き、次のような態度を勧めている。

<その子の幼い時から、朝晩、側近くに親しく寄せて、おかしくもない子どもの話も、面白そうな様子で聞き、年齢相応のことを話して聞かせ、楽しみも共にし、打ち解けた遊びも共にするようにして、

大きくなってからも、ひたすら親しみ睦まじくすることを、親の方から習わせるように。そのようにすれば、悪いことがあった時に叱っても、たまのことだから、快く聞き入れるだろう。>

まさに鐐之助が育てられた環境そのものである。

■8.身をもって子弟を導く方法

子どもは人の真似をしながら、学んでいく。「学ぶ」とは「真似ぶ(真似る)」と同源の由である。

海防論の先駆者と言われる林子平は、子弟を教える方法を説いた『父兄訓』の中で、「子弟を教えるには、父兄たる人、読書・手習い、および文武の諸芸等、怠りなく身みづから執り行うべし」として、こう述べている。

<すべて幼少の者は、万事、人真似をするものだ。その中でも、天然の血筋で、父兄を他に並ぶ者のないほどすぐれた者と思い、何事も父兄のすることを手本にするものだ。だから父兄がそのようにすれば、子弟は自然に、八徳(孝悌忠信勇義廉恥)および文武の諸芸をも、し覚えるものだ。これは、打たず叱らず、身をもって子弟を導く方法だ。これを徳行という。>

鐐之助が、年長のいとこの真似をして箸を使うようになったり、祖父の手紙や日記を書く様を真似て、字を書こうとしたりした様は、まさにこれである。したがって、幼少の頃は、親が子に自らお手本を示さねばならない。

しかし、子どもが10歳になったら、師につけて学ばせることが、良いとされていた。その理由を江戸時代後期の儒者・小町玉川は『自修編』の中でこう述べている。

<父子の間は恩愛を主とする。自分で教えて厳重に善を行わせようとし、従わないと鞭打つようなことになれば、恩愛を損なうことになる。しかも父子が一緒に生活していて、父の行いがすべて道に従ったものでもない。子どもがそれを見ると、父の非を咎める心が生ずる。だからよい師友に託して教えを受けさせるのだ。>

幕末、明治初期に欧米人を驚かせた日本の子育ては、鐐之助の例に見るように、家庭内の意識的な努力によるものであり、かつそれは江戸時代の多くの識者が様々な経験知を蓄積して、社会全体に広めてきたものでもあった。

これに比べれば、現代の教育論に見られる「ゆとり教育」「子供の権利」「個性尊重」などといった主張は、ルソーやマルクス、エンゲルスの影響を受けた底の浅い机上の空論によるものだ。

教育の再生のためには、まずは教育論における本物と偽物の見極めをしておく必要があるだろう。

杜父魚文庫
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