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大震災が証明した国家の重要性 古森義久
東日本大震災という大天災は私たち日本人に筆舌に尽くせない打撃をもたらすと同時に、ふだんでは得がたい教訓をも示してくれたようです。

そんな教訓の一つは「国家」という存在の国民にとっての価値や不可欠性だと思います。

「国家は個人を弾圧する」「国家は抑圧機構」「国家権力におもねるな」――戦後の日本ではこんな国家の否定が知的な流行である時代が長く続いてきました。国家という存在がまるで悪であるかのような、戦後思想だといえます。

国家否定は共産主義の影響のほかに、さらには戦前、戦中の日本国の悲惨な体験という影響も大きいでしょう。しかしいまの現実の世界で個々の人間は自分が帰属する国家を否定されては生きていけません。この単純な現実はどうにも否定できません。日本にとって超重要な日米同盟にしても、まず日本という国家ありき、の存在です。

日本人が外国で苦難にあい、日本の政府ではなく、国連に助けを求めることができるでしょうか。国連が個々人の世話をしてくれるでしょうか。そんな簡単なことを想定しても、個々の人間にとっての主権国家の役割がいかに欠かせないかがわかります。

その単純な基本を証明したのが今回の東日本大震災でしょう。厳密には東日本大震災がもたらした日本国民への災禍とその対策における日本国の役割です。

そのへんの基本について拓大総長の渡辺利夫氏が好論文を書いています。

また私もちょうど10年前、アメリカでの同時中枢テロの直後に、そうした緊急時の国家の役割について似た趣旨の記事を書きました。その記事を再現します。日本のあり方への現実的な思考の一助になれば、という期待からです。

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<<【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫 国家と共同体を心に刻みつけた>>

私の上半身にはいくつもの火傷(やけど)の痕がある。大戦時の空襲により真っ赤に燃える甲府の街を恐怖に震え逃げ惑いながら負った火傷である。母の里に 避難した後、我(わ)が家のあった辺りに戻った私の目の前に広がっていたのは、2つの地場の百貨店が黒く焼け爛(ただ)れて立っているだけ、他は延々の焼 け野原であった。

東日本大震災、津波が黒く巨大なエネルギーの塊となって太平洋側の町や村を次々と飲み込み吐き捨て残していった瓦礫(がれき)の山は、幼少期の経験と二重写しとなって私のトラウマを呼び戻す。「第2の敗戦」である。

大震災以前、多くの日本人は国家と共同体に価値を求めず、自由な個として生きることを善しとする気分の中に漂っていた。国家とは口にしにくいから市民社会 と言い、国民とも言いにくいので市民と言うような気分である。地球市民などという迷妄の用語を弄ぶ政治家さえいた。私はそういう気分のことをポストモダニズムと呼び、こんな軽薄な気分ではナショナリズム鬱勃たる中国、ロシア、朝鮮半島を近在に擁する日本は彼らと共存することさえ難しいと本欄を通じ何度も主張してきた。

≪感銘与えた自衛隊などの献身≫

実際、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、ロシア首脳の国後島訪問、北朝鮮軍による韓国・延坪(ヨンピョン)島砲撃事件と、日本の安全を脅かすことごとが起こったものの、民主党政権は主権国家としてのまともな対応を何もしないままに打ち過ごしてきた。のみならず、日本の安全を保障する唯一の制度的装置たる日米同盟を危殆(きたい)に貶(おとし)めて恬然であった。国家観念の希薄な政権中枢部にあっては、国益とは何かが不分明だったのであろう。

しかし、東日本大震災がまぎれもなく顕現したのは「国家」であった。 このような非常事態に際しては情報収集と危機管理を徹底して一元化し、国民的な力をみずからに引き寄せて事に当たる政治的凝集力が不可欠である。司令塔たるべき官邸のこの面における対応は信じ難いまでに拙劣であった。その責任はいずれ糾弾されねばならないが、いまは言うまい。

司令塔は機能麻痺(まひ)状態にありながら、それゆえ行動展開には難があったのだろうが、自衛隊、消防、警察、海保などの犠牲を厭(いと)わず被災民の救済に献身する姿に感銘を覚えなかった者は少なかろう。自衛隊は総隊員数の半数10万人余を出動させ、生ける者は能う限り救助し、死せる者は積もる瓦礫を掻き分け探し 求め、埋葬に携わって不眠不休の1カ月に耐えた。この光景の中に人々は国家というもののまぎれもない存在を心に深く刻みつけたに違いない。

米軍は2万人近い兵力を投入、空母ロナルド・レーガンをはじめ20隻の艦艇、140機の航空機をもって救助活動を展開した。日米同盟という国家関係があったればこそである。日本は救助されねばならない国家だ、米国にそう認識させる何ものかを日本という国家はもっていたのである。国家なき市民社会などいう物言いがいかに虚妄であったかは自明である。

≪1杯のうどん譲り合う避難所≫

東日本大震災が露(あら)わにしたもう1つは共同体の強靱(きょうじん)性である。共同体なくして人は人生を全うできない。この余りにも当たり前のことをわれわれは忘れ、個として生きることが善きことであるかのような幻想を抱いてこなかったか。温かいうどんが配られると聞いて避難所前に整列した人たちが、配られるのは20数杯だと言われて、受け取ったうどんの茶碗(ちゃわん)を後ろの人に渡し、渡された人がさらに後ろの人に渡していって最後には老人と子供にこれが行き着くといった光景をみて、私の胸はつまる。

共同体を共同体たらしめている精神と原理が、東北地方の農漁村の共同体の中には、しなやかにも生きていたのである。共同体を蘇生(そせい)させねばならない。全うな共同体に支えられずして、全うな国家が存立できるはずはないからである。政権中枢部のぶざまな不作為は、被災地住民からなる共同体の忍耐強い相互扶助によって、辛くも救われているのではないか。

≪「天罰」ではなく「天恵」に≫

日本人の精神の一番奥深いところにある共同体の精神と原理が消失していない以上、いずれ被災地は復興するに違いない。長い平成不況の中を漂い、かといって 食うに困るわけでもなく、ただ寡黙に沈殿してきた日本の国民に、国家と共同体の重要性を悟らせたものが東日本大震災であったとすれば、これは「天罰」ではなく「天恵」であったと受けとめねばならない。

「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を 生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

陛下のこのお言葉の中に、私どもが求めねばならない国家共同体のありようが、深々と表出されていると私は思うのである。(わたなべ としお)

以下は私の10年前の評論記事です。この記事はとくに最後の部分に熱をこめて書きました。

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<<【緯度経度】ワシントン 古森義久 「国家」の意義を再認識>>

米国弁護士協会の「法律と国家安全保障の委員会」の研究会議に出た。九月二十八日の早朝、秋の気配が迫ったワシントンで、である。

この委員会は国防、軍事、外交、諜報など国の安全に関連する機関にかかわる弁護士たちが安全保障について論じるフォーラムなのだが、今回は米中枢同時テロへの法律面での対応を広範に討論する緊急の集まりとなった。論題は「国内のテロ脅威への法的な対応」とされていた。

国防総省、議会、CIA、FBI、国家安全保障局などの法務部門の現旧代表がつぎつぎに立ち、二百人ほどの参加者に向け、今後のテロ壊滅作戦での法律上の 課題を説明する。疾病対策センターや防火工学研究所、核拡散防止の研究機関の代表までが持ち場の状況を報告する。その後は質疑応答となり、熱のこもった会議は三時間近く続いた。会議全体を通じてとくに印象に残ったのは、史上最悪の大テロへの急場の対応の渦中で法律専門家たちのこうした政策研究がじっくりとなされることのほかに、ある民間機関の代表が述べた次の言葉だった。

「今回の事態で明白になったのは私たちをこの種のテロ攻撃から守ってくれるのは国家しかないという事実です。最近の米国でも世界でもグローバリゼーションとか、国境なき、とかいう標語がもてはやされてきたけれども、いざという際に一般市民を守るのは結局は国民国家の政府だけだということです」

たしかに政経グローバル化や国境を越えた多国籍経済を象徴する世界貿易センターがテロで崩れ落ちたとき、被害者を救うのは米国という国家の警官や消防士だった。テロ勢力を追い、滅ぼし、同様の大量殺人が二度と起きないようにするのも米国という国家の軍事力であり、政治力となる。このプロセスではマイクロソフトのようなグローバルな大企業も、国連のような国際機関も、日本でも急増した一連の非政府組織(NGO)も、すっかり無力となる。恐ろしい大規模テロの復旧作業も、再発の防止措置も、テロの壊滅作戦も、米国のような主権国家の政府に頼るしか方途はないことがいやというほど証明されたのだ。

これまでのグローバルな技術や金融の広がりのなかでは国家はなにか時代遅れの存在のように扱われだしていた。国家の主権や国境はハイテクや創意の地球規模の流れにとってはなにか障壁のような負の要因にみられがちだった。

だが今回のテロが起こした大惨事は、いざという最悪の事態に個々の人間を守るのはやはり国家しかないという真理をみせつけて、主権国家の意義を一般に再認識させたようなのである。しかしよく考えれば、統治のメカニズムを持つ整序された国民共同体である国家が、その統治を託された自国民の安全を守るのは当然である。国民の保護や防衛は国家の責務でもある。

「ある国家が自国の国民や代表を暴力から守ろうとする努力の発揮は、その国家の偉大さを測定する最も真実な指針である」

イギリスのウィンストン・チャーチル元首相の言葉である。国家には国民を守る責務があり、その責務の遂行のためにどこまで努力するかがその国家の格を決めるという意味だった。

今回のテロで期せずして明示された国家の意味は、日本の一部での国家観や平和観のゆがみをも正してほしいところである。

社会思想史の権威の関嘉彦・都立大学名誉教授が語った。

「自由と民主主義に立脚する平和は武力なしには守れない。いまの世界で武力の保持や行使を正当化されている単位は国家しかない。だから国家なしに平和を守ることはできないわけです。そのへんの現実が今回のテロで再確認され、日本でも国家を弾圧の道具のような悪だとする主張の空疎が印象づけられたでしょう」

たしかに日本では一部の政党やマスコミには国家を悪しき存在とする傾向がある。日本の民主主義の大前提を認めずに、国家を国民とは対極に置いて、「国家権力」「国家弾圧」という表現を常用する。この理屈に従えば、今回のテロの日本人犠牲者二十数人に対しても日本国政府はなんの関係もないことになる。

だが実際にはそうではないという現実はいまやあまりにも明白であろう。

杜父魚文庫
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