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失言の雄「曲学阿世の徒」 岩見隆夫
一連の失言・放言騒ぎは、どうひいき目にみても情けない。軽口をたたいて、閣僚が辞める。世間は怒りでなく、失笑し、うんざりしている。四つに組んだ真剣勝負のなかから飛び出した言葉ではないからだ。

また古い話になるが、昔の信念的な失言がなつかしく思い出される。元祖は言うまでもなくワンマン、吉田茂元首相だ。

首相在任中の吉田失言で問題化したのは、「不逞(ふてい)の輩(やから)」「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」「汚職は流言飛語」の三つである。いずれも吉田自身は失言と思っていないから、撤回・謝罪はない。なかでも、「曲学阿世の徒」発言は、今日的な意味を持っていると思われるので、改めて経過を追ってみる−−。

敗戦から5年後の1950年5月3日、自由党の両院議員総会の秘密会で吉田(総裁)が発言を求めた。米国との対日講和条約交渉の経過を述べたあと、

「永世中立とか、全面講和などというのは、言うべくして到底行われないことだ。それを南原繁東大総長などが、政治家の領域に立ち入ってかれこれ言うことは曲学阿世の徒で、学者の空論に過ぎない」と切り捨てたのだ。曲学阿世は、真理を曲げて世俗におもねり人気を得ること、中国の古典「史記」にある。

当時、国内では講和論議が沸騰していた。吉田は米英など西側諸国と結ぶ単独講和を決意し、交渉を進めていたが、学者・知識人や革新陣営の間ではソ連などすべての交戦国との全面講和論が強まり、国論二分の様相だった。

吉田はいらだったのだろう。これだけ国の将来を考え粉骨砕身しているのに、という怒りもあった。「曲学阿世の徒」は明らかに失言だが、反対者をけ散らす最高指導者の迫力は伝わってきた。

3日後、南原は記者会見し、

「学問の冒〓(ぼうとく)、学者に対する権力的強圧以外のものではない。全面講和は国民が欲するところで、それを理論づけ、国民の覚悟を論ずるのは、政治学者としての責務だ。それを曲学阿世の徒の空論として封じ去ろうとするのは、日本の民主政治の危機である」と反論の声明を発表した。もっともな主張である。

旧社会党は全面・単独で対立し、翌51年10月、左右両派に分裂(55年に統一)したほどだから、全面講和論を空論で片付ける吉田の高圧的な姿勢は批判されて当然だった。

痩身(そうしん)、気骨の南原は当時、学界の頂点に立つ権威、世間にも名が知られ人気があった。自由党の佐藤栄作幹事長は再反論している。

「学問の自由は尊重するが、すでに政治の問題になっているので、象牙の塔にある南原氏が政治的表現をするのは、日本にとってむしろ有害だ」と。説得力がない。

しかし、吉田はこだわった。のちに著書「回想十年」(新潮社・58年刊)のなかで、<新しい意味の「曲学阿世」>の項を設け、次のように書いている。

<ジャーナリズムの歓心や、左翼好みの青年たちの人気を得ようとして、現実離れの意見を発表するものを、新しい意の「曲学阿世の徒」と言ってよいと私は思う。このような傾向を、ずっと以前から苦々しいと思っていた>

<全面講和論だけではない。世の風潮に調子を合わせる保身の術は、このごろ、責任ある政治家にまで伝染したのか、右に左に言動の一貫性を欠くものを見る。対米協調を説くに怯懦(きょうだ)(臆病(おくびょう)なこと)なのはもとよりだ>

約半世紀を経て、失言・放言の質の違いを感じる。信念、使命感からはじき出された失言・放言は、それ自体が意味を持つ。いまは軽すぎる。(敬称略)

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