<< 菅総理の「おどおどした顔つき」とは 古森義久 | main | 「市民感覚」がまかり通る怖さ 花岡信昭 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |







よく似ている、菅直人と松方正義 岩見隆夫
足を痛めているので、タクシーに乗る回数が多い。このところ、乗ると必ずといっていいくらい運転手が、「尖閣、あれひどいですねえ」

と話しかけてくる。ということは、客もその話題で運転手とやりとりすることが多いのだろう。タクシー運転手はいま街の関心がどこにあるかを知るもっとも有効なバロメーターだ。

今回の中国漁船の船長釈放事件はまことにわかりやすかったから、反応も早かった。

「中国の圧力に屈したのは明らかだ」と最初にテレビ画面でコメントしたのは安倍晋三元首相だったと思うが、テレビ側も明快に言い切りそうなのはだれかと考えて安倍さんをつかまえたに違いない。だが、今回ばかりは、安倍さんに限らず、日本人のだれもが、さらによその国の関心のある人も、即座に同じことを感じたし、それは当たっている。

事件の裏側はまだはっきりしないところがあって、たとえば、那覇地検の次席検事が船長釈放発表の際に、「今後の日中関係を考慮した」

などと越権的な外交発言をしたのはなぜか、などいろいろ推測はできるが、正確な情報がない。おいおいわかってくるだろう。

私は、一部の新聞で触れているが、〈大国の圧力〉にさらされた時の日本側のオタオタぶりで、尖閣事件と百二十年も前の大津事件の類似をすぐに思った。もっと厳密には、菅直人首相と第四代、松方正義首相の類似である。

薩摩藩出身の松方が山県有朋のあとを継いで首相に就任したのが一八九一(明治二十四)年五月六日だ。五日後の十一日、大津事件が突発、この処理が松方の初仕事になる。

日本を親善訪問中だったロシアのニコライ皇太子が琵琶湖観光を終え、滋賀県大津市から六十両の人力車を連ねて京都に向かおうとした時、突然、警備の巡査、津田三蔵が日本刀で切りかかり、皇太子は耳の上部から頬にかけて九・の裂傷を負ったが、傷は浅かった。皇太子の訪日に日本侵略の意図がある、と思い込んでの襲撃だった。世論の一部にもそんな空気があった。

松方政権は驚天動地の衝撃を受ける。翌日、明治天皇が見舞いに駆けつけたが、松方首相らは大国ロシアの報復を極端に恐れた。皇族への殺人未遂で津田巡査を死刑に処す方針を決め、司法に圧力をかける。

だが、大審院(いまの最高裁)の児島惟謙院長はサムライだった。外国の皇族は対象外と主張し、単純な殺人未遂事件として無期懲役の判決を下した。政府の圧力に屈しなかったわけで、司法権の独立を示したものとして、歴史に刻まれた。

◇大国の圧力にオタオタ 腰はすわっているのか

大津事件ではロシアの圧力、報復が具体的に発生していないのに、それにおびえた点では、尖閣事件よりもお粗末だった。時代背景も違うが、松方首相らのオタオタぶりがあとまで話題にされた。

今回は、中国が船長の無条件釈放を求め、理不尽で脅迫的な圧力を次々にかけてきたから、同じオタオタでも、菅首相の方が深刻だったと思われる。だが、大津事件との決定的な違いは、政府の釈放圧力に検察庁が屈した点だ。菅首相、仙谷由人官房長官らは、

「検察独自の判断だ」と口をそろえるが、だれも信じていない。法と証拠で処置する検察側は、領海内で意図的に海上保安庁の巡視艇に体当たりしてきた船長を公務執行妨害罪などで起訴し裁判にかけるつもりだった。法治国家として当然である。

その筋道を曲げざるをえないというのであれば、菅首相がきちんと説明しないことには、国民は納得しない。今回は、政府が中国に屈し、司法が政府に屈し、二重の屈服の疑いが濃厚で、最悪のケースだ。日本はサムライの国ではなかったのか、とよそからなめられる。

余談ながら、松方首相は艶福家で知られ、明治天皇から、「子供は何人か」と尋ねられて答えられず、「後日調査のうえ、ご報告申し上げます」

と述べたという。十三男六女がいた。そのなかには松方コレクションを収集した松方幸次郎さんがいるし、ライシャワー元駐日大使の夫人ハルさんは孫である。松方は財政家としての実績があり、明治の後期まで長年蔵相をつとめた。しかし、第一次、第二次と通算三年弱政権を担ったものの、首相の指導力は乏しく、それを象徴するのが大津事件だった。

これも余談だが、一方のニコライ皇太子は負傷したために日本での日程を切り上げてウラジオストクに向かい、シベリア鉄道の起工式に臨んだ。昨年たまたま当地を訪ねる機会があったが、皇太子の日程が早まったために、突貫工事で建てた歓迎アーチがいまも記念建造物として残っていた。

しかし、その後の皇太子は悲劇的な運命をたどる。大津事件の三年あと、ニコライ二世として帝政ロシア最後の皇帝に就いたが、積極的な極東進出政策で日本などと対立、一九〇四年に始まった日露戦争で敗れた。当時、日本の首相は第六代、桂太郎、長州閥のサラブレッドだった。

さらに一九一七年のロシア革命で退位、翌年シベリアに移送される途中、一家全員が銃殺された。のちに埋葬された人骨が、ニコライ二世のものか疑われた時、大津市の琵琶湖会館に所蔵されている血染めのハンカチがDNA鑑定に使われた。津田巡査に襲われ負傷した時の血痕が残っていたからだ。

脇道にそれたかもしれないが、国を背負う者の器と運命を思う。ロシア、中国、そして米国と三つの大国の狭間に位置して、この日本は昔から揺れてきた。大津、尖閣両事件は、揺れが高まった場面だろう。

松方首相は対露で動転し、八十九歳まで生きた。ニコライ二世は対日で苦悶しながら五十歳で夭折している。菅首相は対中、対米で揺れている最中だが、腰はすわっているか。(サンデー毎日)

杜父魚文庫
| - | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 20:34 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/997415
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE