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「沢内年代記」を読み解く(二十八)  高橋繁
天保八年 丁酉(ヒノトトリ・・・1837年の記録)
【巣郷本の記録】
   ☆疫病はやる  ☆大飢饉の費用供出  
凶作。年貢割合は元歩より四歩引きとなった。一歩銀(一枚で、1両の1/4・1,000文。約25,000円)が始めて沢内通りに来た。
 
疫病(高橋又郎氏・高橋克彦氏の父、医学博士によれば、栄養失調になっているから種々の病原菌に犯されやすかったと思う。特に疫痢、赤痢が蔓延したと思うということであった)が流行した。去年の申年(1837)より今年六七月まで餓死した者は何万人になるのか数えることが出来ない。この大飢饉にあたり沢内通りで費用の供出を仰せ付けられた人数は次の通りである。

\扈郷 泉沢地区・伊右エ門 千両。(1両=約10万円とすれば、1億円となる)
 丸志田地区・仁兵衛 百両。(約1千万円)
 川舟地区 ・伊四郎 三百五十両。(約3,500万円)
 新山地区 ・万右エ門 二百五十両。(約2,500万円)
以上の者は申年(天保七年)の十一月に仰せ付けられた者である。

今年四月に仰せ付けられた者は
∪扈郷   ・伊右エ門 二百両。
      ・仁兵衛 二十両。
      ・伊四郎 七十両。
      ・長吉  二十両。
      ・久右エ門 十五両。
      ・与右エ門 十五両。    
・与左エ門 十五両。
・甚重郎 十五両。
・惣右エ門 五十両。
・弥七 二十五両。
B静超拭  Ω渭妻識辧―集淮勝

た慶郷  ・善兵衛 二十両。(古沢屋)
      ・重右エ門 三十両。     
・市右エ門 二十両。
ヅ鯏超拭  Φ弸献門 三十両。
・清之助 三十両。
・兵右エ門 三十両。
・弥五郎 三十両。
Ψ忙丗郷 ・平左エ門 十五両。                        
・甚右エ門 三十両。                        
・権右エ門 三十両。
・弥右エ門 三十両。
野々宿地区 ・与右エ門 三十両。                       
湯川地区  ・与右エ門 三十両。 
・巌右エ門 五十両。
以上の方々は盛岡城において仰せ付けられた。

この記録を読むと、沢内通りには結構金持ちが居たものだと思う。この金額をみると、沢内通りは貧乏であったと思い込んでいたことが間違いであったように思う。

【下巾本の記録】
   ☆種籾なく、まばらな田植え  ☆藁不足で困る  ☆困窮者横手に集まる
御代官 四ノ戸久左エ門、豊川脇右エ門。

去年は大凶作であったので、上納する米も金銭も納めない者がいたので、正月から取り立てが厳しくなった。しかしながら、春に上納する内の三分の二、夏に上納する内の半分は納めなくてもよいことになったので、有難く幸せに思うことであった。

去年の作柄は稲が実らなかったので、種籾を調達できない人々が多かった。御上様より種籾が少々下し置かれたけれども、所々の田には間に合わず、苗不足の田植えとなった。

お役人たちは村々を廻り、厚く植えた者には十分でなく、薄く植えるようにと仰せ付けられた。田植えは一帯にまばらで薄植えとなった。

秋になって稲刈りしたのであったが、稲束が不足して大変であった。(藁は家畜の飼料、田畑の肥料、霜除け、藁縄、藁沓などの材料として重要であった)

気候は春から秋まで「やませ」風がしきりに吹き、雨は十日、あるいは二十日ずつと降り続き、終には不作となった。食料の調達方が秋田や外からも来て、調達しようとしたが食べ物はなく困惑した。

米一升(1.5)が二百六七十文(約6,500円〜6,750円)であった。小糠一升が秋田横手町で三十文(約750円)であった。なんともしょうがなく食べ物は高値で、他所に出て働くことも鈍り、食べ物を多く買いたいのだが、少ししか買えない。みがき鰊一束は三十文(約750円)まで。

横手鍛冶町の内に三四ケ所で取り調べがあり、生活に難渋したけれども仕方ないことであった。秋田横手町には南部領の者はもちろん、仙台領の者も大勢入り込み、住みつき仕事に当たったが、ようやく八九月頃になって自分の在所に立ち帰るようになった。

どこの国(藩)でも熱病に罹って行き倒れになる人は数知れず、道には屍が多かった。残った者はただ生きて一命を繋ぐばかりで、田畑共に耕作することが手遅れとなり、半夏生(太陽暦では七月二日頃)過ぎに植えたので、終には実にならない所が多かった。勿論、田畑の草取りもせず、手入れは皆々出来かねているのに、年貢割合は去年と同じであった。

【白木野本の記録】
「中作」とだけ記録されている。他本の記録では「凶作」となっているのに、なぜ「中作」の記述になっているのか不思議である。《「歴史年表」より・・・大阪町奉行与力大塩平八郎、蜂起し豪商を襲撃(大塩平八郎の乱)。生田万の乱。アメリカ商船モリソン号、漂流民を護送して浦賀に入港。浦賀奉行に砲撃される。イギリスでビクトリア女王即位(〜1839年)。

「南部史要」によれば、この年「正月九日、八幡寺林(花巻市、石鳥谷)安俵(花巻市、東和)高木、二子(北上市)付近の農民徒党し、藩の秕政(悪い政治)を隣国に訴えようと計画し」二手に分かれて伊達藩に行こうとしたが、一方は伊達藩の役人に拒まれて越境できず盛岡より役人が来て解散させられた。一方は鬼柳の関所の制止を聞かず伊達藩の相去関所に入る。

「彼地役人等これを抑留し、三十人毎に同心一人を附し且つ炊出しをなせり。この報により盛岡より勘定奉行欠端儀右エ門、目付け木村与市等急行して仙台藩の役人と交渉し、首謀者三人を留めその他は悉く帰郷せしめたるが、首謀者は盛岡へ護送の上それぞれ処罰せらりたり。斯く農民一揆頻々として起こり形勢容易ならざるを以て、家老はじめその他の役人まで各方面に出張して農民の願意を聴取したるが願書夥しくして大行李に満ち馬にて運搬したり」とある。願書を採用し決定したことは「地租は免除せざるも他の諸税金中春期納付の分はこれを半減し・・・」云々とある。》

天保九年 戊戌(ツチノエイヌ・・・1838年の記録)  
【巣郷本の記録】
   ☆大飢饉  ☆穀物一升が二百文(約5,000円)
大飢饉。田無になる(収穫するもの無し)。畑作は中作であった。四月閏あり。七月の穀物一升の値段は百二十文(約3,000円)。八九月は二百文(約5,000円)までであった。

【下巾本の記録】
   ☆秋田の米で助かる  
御代官 豊川脇右エ門、本堂丹宮。四月閏あり。作柄は中作。年貢割合は元歩より二歩引き仰せられた。
この年殿様(第三十八世利済公)は少将の官位となった。米一升につき百三十文(約3,250円)。大豆一升につき八十文(約2,000円)。小豆一升につき百五十文(約3,750円)。粟一升につき百四十文(約3,500円)。根花(ワラビの澱粉)一升百文(約2,500円)くらいであった。

「惣テ穀物高値ニテ秋田ニ行ク米越テ助ナリ」(この一文の解釈に迷った。「秋田に行く米」は「秋田に売りに行く米」と解釈してよいかどうか。「越えて」は行ったのか。来たのか。「助かった」は売れて現金収入になった。喰うことが出来た。のどちらか。飢饉の事情を考えると「秋田へ行って米を買い越して来て助かった」方の解釈が納得できるが。)

【白木野本の記録】
「この年たねナシ。大飢饉。」とだけ記録されている。《「歴史年表」より・・・佐渡一国一揆。徳川斉昭、意見書「戊戌封事」を執筆。長州藩、村田清風を登用し、藩政改革を開始。イギリス、チャーティスト運動(〜1848年)。

「南部史要」には、「三月江戸城西丸消失・・・。この年気候不順にして八月中大降霜あり、損耗高二十三万八千石に上り大凶作大飢饉となる。」とありそのための対策が記録されている。》

天保十年 己亥(ツチノトイ・・・1839年の記録) 
【巣郷本の記録】
   ☆費用拠出者にご褒美  ☆稲穂に虫多く種無し
二月、又、新町代官所に飢饉費用の供出を仰せ付けられた者は、泉沢の伊右エ門は百五十両(約1,500万円)、川舟の伊四郎は七十両(約、700万円)、新町の万右エ門は六十両(約、600万円)の三名で、この方々は三度も供出金を出されたので、ご褒美として永代にわたって御扶持米(給料)三駄(1駄7斗として3駄は2.205t)を下し置かれた。

この年は稲穂に何年も経験したことのないほど虫がつき、種無しのところが多かった。(この虫は、ツマグロヨコバイやウンカの仲間と思われる)年貢割合は元歩より四歩の割引があった。そのほか二百五十駄(183.75t)の割引米があった。

【下巾本の記録】
 御代官 本堂丹宮、山田喜八郎。作柄は中作。年貢は元歩より四歩引きとなった。この年の五月、米一升につき百五十文(約、3,750円)。大豆一升は百二十文(約3,000円)。小豆一升は百五十文(約3,750円)。根花(ワラビの澱粉)一升は百文(約、2.500円)までであった。

【白木野本の記録】
 「コノ年ムシクイ、下作。」とだけ記録されている。《「歴史年表」より・・・渡辺崋山北町奉行所に捕縛(蛮社の獄)。小関三英自殺。高野長英自首。この年人情本の流行が最盛期。清国で林則徐、アヘン貿易を禁圧。「南部史要」には「十二月二十八日公(南部利済)少将に任ず。」とある。》

天保十一年 庚子(カノエネ・・・1840年の記録)
【巣郷本の記録】
   ☆お蔵米雫石まで運んで納める  ☆御用金、年三回割り当てられる 
作柄は上作。年貢割合は元歩に一歩増しとなった。穀物の値段は下がった。六月は米一升(1.5)は六七十文(約1,500円〜1,750円)くらいで、十月ころは三十文(約750円)くらい。大豆・小豆は一升、二十五文(約625円)くらいであった。

お蔵米(年貢米)を七月末頃雫石まで運納するよう仰せ付けられ、人々は大変迷惑した。この年、御用金(臨時賦課金)十四五両(約140万円〜150万円)より一歩二朱(一歩金、二歩銀・1,000文〜500文=25,000円〜12,500円)まで分割して割り当てられた。その人数は八九十人になった。卯年(天保14年・1843)まで、一ケ年に三度も仰せ付けられ、百姓共は困窮した。

【下巾本の記録】
   ☆正月閏あり  ☆水沢銅山へ米運ぶ
御代官は前年と同じ二人であった。正月閏あり。年貢割合は元歩と同じ割合を仰せつかった。入石(他領から買い入れた米)一駄(7斗・105)につき三貫文(約75,000円)。大豆一升は二十四文(約600円)。小豆一升、十三文(約325円)。根花(ワラビ澱粉)一升百五十文(約3,750円)。葉藍(藍染原料)一籠、四貫二百文(約105,000円)

お蔵米を盛岡へ運納するのに牛が不足して、三百駄を雫石まで背負って運んだ。この年、水沢銅山(現・北上市和賀町)へ、家ごとに一駄ずつ背負い運んだ。

【白木野本の記録】
 「上作」としか記録されていない。《「歴史年表」より・・・オランダ船、長崎に入港し、アヘン戦争を伝える。幕府、川越・庄内・長岡の3藩に三方領地替えを命ずる。清国アヘン戦争始まる。「南部史要」には「八月一日、盛岡日影門の稽古所を明義堂と改称す。」とある》

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