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根本博陸軍中将の「義に報いるに義を以てす」 古沢襄
八月は鎮魂の月である。これを機会に一人の軍人の生涯をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の全文を引用してみる。根本博(ねもと・ひろし)陸軍中将・・・戦後、いく度か話題になったが、全貌が掴めずに毀誉褒貶の渦のまま忘れ去られてきた。

ウィキペディアの記述は詳細をきわめている。遺族や関係者の証言によって全貌が初めて明らかにされている。敗戦後、モンゴルに侵攻したソ連軍は停戦に応じないで攻撃を続け、在留邦人四万人が殺戮の危機に瀕した。駐蒙軍司令官だった根本中将は、「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と命令を下している。

すさまじい白兵戦が三日三晩も展開され、在留邦人四万人を乗せた列車と鉄路を守り抜いた。日本軍の必死の反撃にソ連軍と中国共産党の八路軍は戦意を喪失し、攻撃を断念している。天津に脱出した在留邦人たちは、蒋介石総統の国民政府軍の支配下で全員が引揚船で帰国することができた。

満州では関東軍は総司令部の軍命令でほとんどの部隊がソ連軍の降伏し武装解除された。武装解除された関東軍には在留邦人を守る力がない。国境地帯から徒歩で避難する在留邦人たちが、匪賊化した満人たちに襲撃され多くの犠牲者を出す悲劇に見舞われている。在満州の邦人を救い得なかった関東軍の降伏は、あまり論じられなかったが、モンゴルの駐蒙軍の行動とはあまりにも違いがある。

根本中将は、蒋介石総統が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に深く感謝していた。蒋介石総統は八月十五日の対日戦争勝利の告示をラジオ放送で「怨みに報いるに怨みをもってせず」と布告した。

「老子」に「怨みに報いるに徳を以てす(以徳報怨)」の言葉がある。蒋介石総統は中国の古い教えをひいて、中国本土に展開していた二百万の日本軍捕虜に報復行動をすることを戒めた。反対なのはスターリンのソ連軍である。在満州の関東軍五十七万五千人は武装解除後にシベリアに連行され、シベリア鉄道の復旧工事などで強制労働を強いられた。このために六万四千人の将兵が死亡している。

根本中将は敗戦後の1949年、台湾へ渡って、金門島における戦いを指揮している。国共内戦で劣勢に立たされた蒋介石総統のために渡台して、日本軍捕虜を無傷で送還してくれた恩義に報いる行動に出ている。「義に報いるに義を以てす」ということであろう。

1967年、私は台湾を訪問して日月潭で静養中の蒋介石総統に訪台記者団の一員として面会している。一人一人に握手してくれた蒋介石総統の柔らかい手が印象に残る。だが、私の心は複雑であった。この柔らかい手が二百万の日本軍捕虜を無傷で送還してくれたが、その手で台湾大虐殺といわれる二・二八事件(1947年2月28日)を起こしていた。二・二八事件で約二万八千人もの台湾人が殺害・処刑されている。

この時に根本中将が実戦指揮した金門島に一泊二日で行った。台北市郊外の松山空軍基地からダグラス双発輸送機に乗って、中国空軍のレーダーに捕捉されないように、海上300メートルという超低空飛行で金門島の軍用飛行場に着陸。案内役は日本の陸軍士官学校(三十九期生)をでた荘南園大佐だった。

荘大佐に根本中将のことを聞いたが知らないという。しかし中国側の資料では、実際に作戦指導に当たったのは、根本中将だと断定している。また蒋介石総統が根本中将を頼りにしたことについて、米側は必ずしも好意的でなかったと暴露している。

<<事実は第7代台湾総督、明石元二郎の長男・元長氏や台湾の共産化に危機感を抱いた「東亜修好会」メンバーの手引きによって根本中将は台湾密航に成功していた。台湾では「林保源」を名乗り、中国共産党の人民解放軍との最終決戦となった金門戦争(古寧頭戦役)に参戦。作戦立案が奏功し、二昼夜にわたる戦闘の末、人民解放軍は全滅した。

蒋介石総統と根本中将とはその後も交流が続いた。最近米国で公開された「蒋介石日記」にも根本中将に関する記述があり、蒋介石総統が心から信頼していた様子が読み取れる。

しかし、台湾でも根本中将の存在はもちろん、功績が認められることはなかった。金門戦争勝利への日本人の関与が明らかになることは大陸から渡ってきた蒋介石総統ら「外省人」が、台湾人の「本省人」を支配するうえで邪魔だったためとみられる。

戦役後60年目になった昨年10月、「古(こ)寧(ねい)頭(とう)戦役六十周年記念式典」へ根本中将の関係者らの出席が認められ、台湾の国防部が公式に謝意を表明、初めて功績がたたえられた。(産経新聞)>>

根本博(ねもと ひろし、1891年(明治24年)6月6日 - 1966年(昭和41年)5月24日)は、日本陸軍の軍人で陸軍中将功三級。福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校卒、 陸士23期。陸大34期。

終戦時にはモンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官で、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の執拗な攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を、司令官として救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、今に至る台湾の分離確定に大きく寄与した。

経歴・少壮将校時代
陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。南京領事館附駐在武官として南京に駐在していた 1927年3月南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。自分が死ぬことで、幣原外交の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。

帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、満蒙問題等解決の為に、国策を研究する目的で、石原莞爾、鈴木貞一、村上啓作、武藤章ら陸士21期生から27期生の少壮将校を中心に、同年11月に9名で結成された無名会(別名 木曜会)に参画する。続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎、板垣征四郎、土肥原賢二、東條英機、山下奉文ら陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会に加わった。

1930年8月、中佐として参謀本部支那班長となる。この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時の根本班長の思い出を戦後回顧している。1931年12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を、「昼行灯」と称して、忠臣蔵の大石良雄に擬していたという。

1930年9月、国家改造を掲げる結社桜会にも参加するようになり、翌年には陸軍のクーデター事件である三月事件に連座するも、中心人物である橋本欣五郎ら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。十月事件にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。

中堅将校時代
1935年8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢三郎に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。

二・二六事件の際は、陸軍省新聞班長として部下に、あの有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。根本は決起将校らが陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍權を私したる中心人物として、武藤章中佐、片倉衷少佐と共に即時罷免を求められている。また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。

高級将校時代
二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。

根本について特筆すべきは、1944年11月に就任した駐蒙軍司令官としての終戦時における行動である。終戦日の8月15日を過ぎても、ソ連軍は満州や中国での侵攻を止めず、暴虐の限りを尽くし、日本軍や在留邦人を苦しめていた。このまま手をこまねいていては、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危ない。一方で日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら罪に問われる可能性もあった。

しかし、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は『理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う』と、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。

8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍は戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に必死に努力した。

引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。また、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任した。

復員後
復員後の1949年6月、東京から、元上海の貿易商であった明石元長の仲介で、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から極秘に台湾へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。

同年10月には、国民政府が台湾へ移り、中華人民共和国が成立した後、最初の本格的な戦いである、本土から数kmしか離れていない金門島における古寧頭の戦いを指揮、上陸してきた中国人民解放軍を見事に破り、同島を死守した。

この時金門島に2万とも3万とも言われる人民解放軍が上陸した際、根本はこれを8千から1万の兵を率いて邀撃殲滅したとされる。ただ一方で、金門島の戦いで根本を含めた旧日本軍将校は、現場指揮官として兵を直接率いたのではなく、あくまで助言に徹し、表面には出ないようにしていたとの証言もあるが、戦いの勝利に貢献した事は間違いないようである。2009年古寧頭戦役戦没者慰霊祭に子息が出席を許され総統と会見した。当時、根本らの台湾密航は国会でも追及されたが、当時の吉田茂首相は、そのような事実があるかもしれないと答弁を濁している。

根本帰国後も、この島を巡っては激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は人民解放軍の凄まじい攻撃を凌ぎ、現在に至る台湾の分離が確定した。根本は、蒋介石が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に恩義を感じていたとも言われている。

尚、日本の終戦後に、根本以外にも台湾へ渡り軍事的協力を行った日本の元軍人がいた。その代表的なのが白団で、1950年頃から1968年頃まで、当初は83名から最終的には5名に至る状況ではあったが、台湾側の要請(があったと言われている)により、極秘に渡行して中国名を名乗り、軍事顧問団として協力している。当時アメリカの軍事顧問団もいたが、台湾側としては日本の戦い方の方が、台湾の戦い方に合っていると判断していたと思われる。当時の日本政府もこの情報を一部掴んでいたものの、黙認していたとされる。

年譜
明治24年 6月6日 出生(福島県岩瀬郡仁井田村)
明治37年 9月 仙台陸軍地方幼年学校入学
明治40年 9月 陸軍中央幼年学校入学
明治42年 5月 陸軍中央幼年学校卒業
明治42年 5月 士官候補生
明治42年12月1日 陸軍士官学校入校
明治44年 5月27日 陸軍士官学校卒業
明治44年 6月 見習仕官旭川歩兵第27聯隊附
明治44年12月26日 陸軍歩兵少尉・旭川歩兵第27聯隊附
大正3年12月 陸軍歩兵中尉
大正 8年12月1日 陸軍大学校入校
大正10年 4月 陸軍歩兵大尉
大正11年11月29日 陸軍大学校卒業
大正12年 5月 旭川歩兵第27聯隊第一中隊長
大正12年12月 参謀本部支那課支那班
大正13年 8月 参謀本部部員
大正15年 3月 参謀本部附(支那研究員)
大正15年 5月1日 参謀本部附 南京駐在武官
大正15年 8月 陸軍歩兵少佐
昭和 2年 3月 南京事件で負傷
昭和 2年 9月9日 陸軍省軍務局課員(支那班長)
昭和 4年 3月 参謀本部附(ドイツ出張)
昭和 4年12月 参謀本部支那課支那班員
昭和 5年 8月1日 陸軍歩兵中佐参謀本部支那課支那班長
昭和 7年 5月 参謀本部部員
昭和 7年 8月8日 参謀本部附(上海駐在武官)
昭和 8年 7月4日 支那駐屯軍司令部兼参謀本部附
昭和 9年 3月5日 陸軍兵器本廠附(陸軍省新聞班長)
昭和 9年 8月1日 陸軍歩兵大佐
昭和11年 2月26日 戒厳司令部第四課長
昭和11年 3月7日 旭川歩兵第27聯隊長
昭和12年 9月4日 北支那方面軍司令部附
昭和13年 5月14日 北支那方面軍特務部長
昭和13年 7月15日 陸軍少将
昭和14年 3月10日 興亜院華北連絡部次長
昭和14年 8月1日 参謀本部附
昭和14年12月1日 第21軍参謀長
昭和15年 2月10日 南支那方面軍参謀長
昭和16年 3月1日 陸軍中将第24師団長
昭和19年 2月7日 第3軍司令官
昭和19年11月23日 駐蒙軍司令官
昭和20年 8月19日 北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官
昭和21年 8月 復員
昭和24年 5月 台湾政府の対中共作戦に協力(〜昭和27年6月帰国)
昭和41年 5月24日 死去
 
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