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私の8月15日 渡部亮次郎
昭和20年、当時は国民(小)学校4年生。学校ではボール紙に印刷されたルーズベルトとチャーチルの顔を殴っていたのが2年生ごろか。

4年生になったらら、先生がアメリカ軍の艦載機はキーンと甲高い爆音が特徴だと教えてくれた。

7月14日の昼前、突然「キーン」が聞えた。北の空へ3機が飛んで行ったと思ったら、いきなり煙を吐いて落下。こりゃしめたと思ったら「急降下」だった。列車に向かって機銃掃射だった。

3機とも戻ってきた。胡瓜畑に隠れて妹と肝を冷やして覘いていたら機上から見られているから掃射されるものと覚悟を決めた。しかし銃撃される事は無く3機は去って行った。生まれた初めて体験した「死の恐怖」だった。

この日は隣県岩手県の太平洋に面した釜石市が米海軍による艦砲射撃をうけた日。その響きは地鳴りとなって日本海岸にも伝わってきて、日本が細長いことを子供心に実感した。

日本海にひびいた釜石艦砲射撃。釜石艦砲射撃(かまいしかんぽうしゃげき)は、太平洋戦争末期に、連合国軍艦隊が岩手県釜石市に行った2度の艦砲射撃のこと。

昭和20年7月14日の砲撃。一度目は1945年7月14日に、アメリカ海軍の戦艦部隊によって行われた。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊。

第34任務部隊から分派した第34.8.1任務隊(司令官:ジョン・F・シャフロス(John F. Shafroth)少将)の戦艦3隻と重巡洋艦2隻、駆逐艦9隻により、釜石を砲撃した。主要な攻撃目標は、日本製鐵釜石製鉄所だった。この砲撃で日本側は一般市民を含む515人が死亡した。

八郎潟に飛んできた艦載機はこれらとは別のところから飛来したものだったろう。しかし日本海岸の住宅のガラス戸を揺らす音は愈々戦争が私にも迫ったことを教えた。

釜石に二度目の砲撃は同年8月9日に、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行った。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊のほか、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)であった。この攻撃では日本側は301人の死者を出した。出典;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本物の恐怖は1か月後に来た。東沿岸に住んでいる旧八郎潟上空を真っ赤に染めてアメリカの大型爆撃機B29が大編隊をなして南の秋田市方面に引き返して行く。機体の下腹が火事の明かりで赤く染まっていた。私は西側に広がる田圃のあぜ道に腹ばいになって見上げていた。4つ上の兄は学徒動員に出たままだった。

即ち、終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、秋田市「土崎(つちざき)」は米軍機による激しい爆撃を受けた。私の家は20キロぐらいしか離れていない。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29から投下された爆弾は12047発・約1000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

戦後、明らかにされた米軍の資料によると、これらB29はマリアナ基地から飛来した第315航空団の141機。当夜の天候は薄曇のち快晴だった。目標は日本石油秋田製油所。攻撃高度10200-11800フィート。投下爆弾トン数、計957・1トン、攻撃は14日23時48分から15日2時39分までの2時間51分間。

米側資料の「任務の概要」によると成果は未確認なるも損失機なし。これだけ飛来しながら目標を目視したのは2機だけだった。日本側からは「貧弱、不正確な対空砲火」があっただけだった。

15日正午の天皇陛下の「玉音」はラジオが無かったから知らないが、夜になっても「灯火管制」が無かったから終戦を知った。いや敗戦だった。

この敗戦前日の空襲は埼玉県熊谷市、伊勢崎市、七尾市、下関海峡(西)、宮津、浜田にも襲い掛かったことが米側の資料にはある。

対英米戦争は草深い田舎でも死の恐怖と対面させられながら展開していたのである。

当然、学校は夏休みだった。15日の午後近くの「馬冷やし場」で足を洗ったのを明確に記憶している。理由は思い出せないが、北国の太陽も強烈だった。あれから65年。9歳は74になったか。

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