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「沢内年代記」を読み解く(二十二)  高橋繁
文化十三年 丙午(ヒノエウマ・・・1816年の記録) 
  ☆苗代に積雪 ☆職人の監察取り上げ ☆代官役所改・修築 ☆桂子沢肝入交代
  ☆秋田米を盛岡に運ぶ ☆二歩金(金貨)沢内に来る?
〆酳舛話罎両紂∧診より少し良い出来具合であった。「秋揚げ当分よし」(秋上げは稲作が不良のために米価が上がることである。「当分よし」ということをどのように理解するかが問題である。

 (ア)秋の米価が上がり農家の収入がよくなってよかったのか。(イ)米価は高くなったが当分はたいした額ではなかったのでよかったのか。迷うところであるが(ア)と解釈するのが素直で自然な解釈と考える。)

 「下巾本」には「八月閏あり。世の中(作柄)中の上作。課税割合は文化七年と同じ割合であった。ただし、これは安永四年(1775)と同じわりあいである。御代官 松原勝治、澤田佐市。入石(他領地から買い入れ米)一升(1.5kg)三十七文(925円)。閏八月四日大雨風で作物は傷物になった。」とある。

∪儀邂貽大吹雪、六日まで毎日吹雪く。七日晴天。四月十七日(旧暦の四月は現在暦では五月)は八十八夜(立春から88日目、陽暦5月1日から2日頃にあたる。種蒔きの適期とされる)ブナの木の葉は土用(陽暦4月17日頃)過ぎの五日目に青みがかった。四月十九日(旧暦)に霰が降った。二十四日より雨降る。二十七日晩には一寸五六歩(約5cm)ほど雪が積もった。「下巾本」には「四月二十八日雪降る。種蒔きした苗代に四五寸(約15cm)ほど積もる」と記録されている。

積雪量の違いは雪の降り方は地域により違ったということである。「巣郷本」の記録者の住む地域と「下巾本」の記録者が住む地域が異なるから観測した量も違うことになる。五月一日まで雨が降り続いた。二日より晴天。六月二十五日土用。

O桟郛綵棔田一枚(田は畦に区切られている。その一区切りを枚で数えた)ごとに持ち主に書かせ、沢内中の家一軒々々、神社の数、道路の大小、小川、山林原野の境まで残らず絵図に描き現わすように命じられ、完成して差し上げた。
そ職人の御判紙(署名入り許可証・鑑札書)を取り上げられた。沢内通りの職人は、鍛冶屋、桶屋、農具、仏具屋、蹄鉄、染屋、畳、襖、鉱山関係の職人等が考えられる。職人は許可証を持っていたことが解る。特に染め屋は代官所扱いになった。棟梁(頭)小頭(リーダー)共に退役となった。新しく染屋を始めたい者は願い出るようにという達しがあった。 職人の新陳代謝を図ることと、税収の確保が必要であったからと考えられる。

ァ峅雫卷棔廚砲蓮◆崋祁扈充憩より二十八日まで雨降らず、大日照り。御役屋(代官所の役所)の改・修築のための割銭(税)六十貫文(主役所棟1500.000円)と五十貫文(付属棟1250.000円)で始まった。御帳附(書記役)は退任となった。(退任の理由は記されていない。普通は高齢となり、子にその役を譲る場合がほとんどであるといわれる)

桂子沢の肝入(村長)惣兵衛が代わり、幸左エ門になった。御百姓の御役金銭(種々の税金・定税と臨時税があったとされるがこの場合は臨時税と思われる)は直接殿様に上納することになった。肝入役銭(肝入給料のための税)は下げて割り当てられた。

この年より年貢米は一度、お蔵(米倉庫)に「見米」(みせごめ・米の品質を見定めるための米)を出させ、上納した後に「見米」を持ち帰るように指示された。代官役所の書記役が退任となったので、下役(雑用係りか)二人が書記の役を務めることになった。」と記録されている。「巣郷本」「下巾本」「草井沢本」には無い記録内容である。

Α崛禧針棔廖屬海隆屬良埆呂里燭疂堂舛呂海箸里曚高値になった。代官、殿様に交渉し、秋田米を多量に買い、山越えして到着した。それを左草、下前で受け取り、牛の背に積み城下盛岡に運んだ。五月新田の肝入、越中畑の惣兵衛が退任した。惣兵衛が税を全額上納できなかったので残りを新田の総百姓が惣兵衛の田地を引き受けお上に弁納した(分け合って納めた)。

「白木野本」には「総百姓」ではなく「総老名」(総おとな)と記録されている。「老名は村々にあり、多くは村の顔役、豪農、前の肝入等で、肝入を補佐し村政を助けた」(用語・盛岡藩辞典)とある惣兵衛の未納税を納めたのは「総百姓」ではなく「総老名」であったと思われる。未納の税額はどれだけであったか不明であるが、百姓には様々あって専業者は限られ、田地を引き受けできない百姓が多かったと考えられるからである。

二歩金当所に来る。「二歩金は江戸時代の金貨の一種。一両の二分の一にあたり、二枚で小判一枚に相当する。1818年(文政一年)から1868年(明治一年)まで鋳造。」(「広辞苑」)「広辞苑」にある二歩金の鋳造発行の年が正しければ、沢内通りには鋳造前、発行前に「二歩金」が来たことになる。識者によれば、石巻の鋳銭座、大迫の鋳銭座には各地から出稼ぎ人が集まり、貨幣が鋳造されたとのことである。沢内通りからも鋳銭座にはかなりの人員が出稼ぎにいっていると思われる。

その人々の内の誰かが話しを聞いたか。あるいは見本の二歩金を密かに持ち帰ったとしか考えられない。「二歩金」の鋳造年期間については何種類かの資料を調べたが「広辞苑」の年期間と同じであった。「二歩金」についての記録は「巣郷本」だけにある。疑問の残る記録である。

八月に、いろいろの役銭(税金)は月割り(月賦)で納めるようにという命令があった。沢内においては、百八十六両の割り当てがあった。

 ・十両は正月 ・ 二十五両は二月 ・ 二十両は三月 ・ 二十両は四月 ・ 十五両は五月
 ・二十五両は六月 ・ 十五両は七月 ・ 十五両は八月 ・ 十五両は九月 ・ 十五両は十月
 ・十一両は十一月 閏年のある年は十五両は三月。二十両は六月。十両は閏月に出す。
他の御役銭については、これまでの通りとのことであった。この項は「白木野本」のみに記録されている。

「草井沢本」閏八月あり。10月16日月帯蝕、7分欠ける。この年五穀上作で万民が喜びあったとある《「歴史年表」より・イギリス船、琉球に来航して通商を要求。この年ロシアでゴロヴニンの「ゴロヴニン日本幽囚記」刊行。モンローアメリカ第5代大統領に選出。》 

文化十四年 丁丑(ヒノトウシ・・・1817年の記録)
   ☆秋上げ当分よし ☆お蔵改修築 ☆「囲籾・かこいもみ」通達 ☆代表三名城内神社参詣
   ☆山林原野の調査 ☆新町十助、清酒造り許可 ☆入会山で中村、白木野、越中畑争う
\儀酥日 天気よし。肥え引き(西和賀においては堆肥を田に運ぶには雪の上をソリで運んだ。その作業を「肥え引き」といった)二月十五日まで天気よし。十六日より二十五六日まで雨が降り続いた。三月十二日より種蒔き(米の)始め、二十日には沢内中みな終わった。

四月二十日頃から田植えをした。五月十二日より六月十二日まで雨が降り続いた。六月十三日、十四日の朝霜が降りたがその後天気は回復した。七月三日、四日の朝は秋の彼岸(陽暦では9月23日頃)のように寒冷となった。稲の穂が出たけれども花は咲かなかった。七月六日より天気は良かった。米等の作柄は中作であった。「秋上げ」(米価)は当分よかった。(この項「巣郷本」の記録)

◆峅雫卷棔廚竜録「作柄は中作であった。課税割合は去年の「安永四年」(1775)元歩と同じであった。御代官 松原勝治。 二月大須賀左右、澤田佐市が代わって来る。入石(他領からの買い入れ米)一升(1.5kg)三十七八文(およそ950円)

新町御蔵(米収納庫)の中二階が改築された。人数ごとに「囲籾」(非常時の用意に貯蔵する籾)を村ごとに備え置くように通達が出された。肝入(村長)伊右エ門は「寄合普請」(ヨリアイ普請・労力や費用を出し合って建築すること)で家の前に土蔵を建築した。盛岡藩領内の一代官所あたり老名(オトナ・村の顔役・代表)一人、肝入(村長)一人、小百姓(自作で高収穫の百姓)一人合わせて三人を城に呼び、「二ケ榊山」(榊神社・桜山神社か)の参詣を仰せ付けられ、お酒御吸物を頂戴した。沢内通りからは肝入として泉沢の多兵衛、老名として湯田村の長左エ門、小百姓として上左草の助七の三名が行き参詣した。

この年、沢内中の山々の樹木の調査のため小田島平八、高橋喜内の二人は全ての山を歩かれた。 「巣郷本」には「沢内中の山林野山、四方すみずみまで、林の境木、縦横、間数(間隔・距離)を含め、当地の銘木、雑木の数を調べられた。青木類(針葉樹・ヒノキ・杉・松など)は別に調査された」とある。材木は盛岡藩の貴重な財源であったため、このような調査は何回か繰り返されている。新町の十助が清酒造りを願い出、許可されて造り始める。五月改元されて「文政」となる。
   
「巣郷本」の記録に戻る。この年、野々宿の明神林が野火のため杉七百本ばかり焼失した。この林の持ち主は野々宿の平右エ門と小繋沢の徳兵衛の二人であった。二人とも大変困窮した。六月 中村と白木野村の百姓衆が白木山に焼き畑を作ろうと登山したところ、越中畑の百姓衆が大勢来て妨害した。中村と白木野の百姓衆は「この山は先年より三ケ村の入会いで種蒔きする所である。それなのになぜ妨害するのか」と問い正した。越中畑の百姓衆がいうには「この山の一部は越中畑の土地であるから多村の者は入ることは出来ないのだ」と言って一向に聞き入れなかった。それどころか越中畑の百姓衆は、理不尽にも農具を取り上げ奪おうとした。

中村と白木野の百姓衆は奪われてなるものかと争ったが、大勢に無勢であったため、山刀(鉈)、鎌、鍬、等まで全部取り奪われてしまった。中村と白木野の百姓衆は新町の代官所に訴え出た。検断(警察・裁判を兼ねた役)はじめ宿老(村のまとめ役・現在の村会議員、区長のような役)衆、並びに新田郷中の村老(村の役職者)が立会い吟味し審議した。その結果白木山は三ケ村の入会いの山であることが明確になった。

代官所は越中畑の百姓衆を新町に呼び寄せ、審議の結果を言い聞かせ、農具を中村と白木野の百姓衆に返すように言い渡した。越中畑の百姓衆は恐れ入ったことであったと言って帰った。しかし、越中畑の百姓衆は農具を一向に返そうとしなかった。そのため、また訴訟を起こすことになった(結局、三ケ村の訴訟は次の年に持ち越される)。翌年文政と改元あり。《「歴史年表」より・イギリス船、浦賀に来航。オランダ商館長ドゥーフ帰国。》
 
文政元年 戊寅(ツチノエトラ・・・1818年の記録)  
   ☆白木山入会い事件上訴 ☆源右エ文に褒美 ☆大霜で桑、蚕全滅 ☆冬に蝿が飛ぶ
   ☆二歩金の鋳造
]桟遏’鯡斂遏中村の百姓衆は止むを得ず新町の代官所に度々訴え出た。越中畑の百姓衆は役所の言い渡しを少しも聞かず、自分たちの言い分を言い通した。中村と白木野の百姓衆はどうしようもなく、村中の百姓衆が一丸となつて越中畑の百姓衆の不法を連判状にして訴え出た。

新町の代官所では止むを得ず城下まで上訴した。この時、越中畑の源右エ門がただ一人、越中畑の百姓衆は間違っていると諫言した。しかし、先頭に立っている惣兵衛はじめ一同は一向に聞かなかった。越中畑でも自分たちの主張を連判状にして城下に行き訴えた。よりどころを失った源右エ門は徒党から抜け出し、お上に上訴した書状の印判を削って立ち去った。「白木野本」では「源右エ門は仲間はずれになったようである。

そして新町の代官所に訴えた」と記録されている。その後、お上から「越中畑の者共は不法である」という通知と追放の罰があるという決定がなされた。十二月二日首謀者の惣兵衛、同調者の長右エ門、長太郎の三人は手錠を掛けられた。

十四日間手錠のままであった。十六日惣兵衛は田名部(青森下北半島)、長右エ門は野田(三陸沿岸)、長太郎は五戸の市川(青森県五戸町)へ、新町代官所から直々に追放になった。(自宅に寄ったり、知り合いの家に寄ったり出来ず、役人監視のもとに追放地に行ったことと解される。)

源右エ門については、たびたび諫言したこと。特にも徒党を抜け出したことは実に立派な行動であったと賞賛された。ご褒美としてその身一代の年貢米を「片馬」(1駄の半分、約3斗5升)下さった。さらに越中畑の者たちは源右エ門の指図に背くことがないように仰せ渡された。御代官 大須賀左右、松原勝治。(この年の「巣郷本」の記録は、この事件だけの記録で終わっている)

◆峅雫卷棔廚竜録「文政戊寅元年となる。作柄は田は上々の出来具合であった。課税割合は安永四年(1775)の元歩より一歩増になった。御代官 松原勝治、大須賀左右。入石(他領地からの買い入れ米)は一升(1.5kg)三十二三文(825円)。四月十五日の夜大霜降る。桑の葉が霜焼けでみなダメになった。蚕は桑の葉がないためみな死んだ。五月二日三日大雨が降り、洪水となり畑所々決壊、小橋は皆流された。六月十五六日より雨が降らなかった。八月一日まで日照りで、大根、ソバは大不作であった。」

「白木野本」の記録「正月一日立春。三月二十五六日頃種撒く。四月五日天気が悪く苗が育たなかった。六月十五日まで雨降る。十六日は雨が降ったけれども冷風の「やませ」が吹いて雨が終わった。それから十日ばかり吹いた。七日八日過ぎ寒冷の「やませ」風が吹いた。六月十七日より晴天。全般に種蒔き終わって五十日余り経ってから田植えする。(普通は種蒔きが終わって30日から40日で田植えする。この年は苗の育ちが遅れていたことになる)

七月三日四日より稲の穂が出はじめ、二十日頃には入り江、小沢の田まで穂が出揃った。七月二十四日雨降る。それより少しずつ雨が降った。秋上げ(秋の米価)当分よし。三十余日間日照りがあったが、日照りのために特別の損害はなかった。畑作は総体的に悪かった。藍、大根は日に負けて弱った。大豆は良かった。

十月十一日(陽暦では11月)初雪が降った。一尺(約30cm)ばかり積もったがほとんど消えた。大根堀は大根の生育が悪かったためか、すぐ抜けて苦にならなかった。殿様の位が上がったので、村の役職たちに金子一歩(1歩金とすれば1両(4.000貫文)の4分の1で約25.000円)を納入するよう仰せられたので差し上げた。褒美として十月二十五日代官所の役屋で清酒飲み次第振舞われた。

しかも、鮭の吸い物付きであった。十一月二十六日と十二月二日(陽暦では1月)に蝿が出た。夏の蝿のように飛び回った。当年まで染め屋等のホウギ(榜木・表示木・看板)を出すこと、並びにその売り買いは棟梁より禁止されていた。今年からは希望次第出してよいことになった。染師になった者が数人あった。」《以下の記録は「巣郷本」と同じ、白木山の入会訴訟事件であるので省略した》

ぁ崛隶翅本」の記録「四月一日 日帯蝕 四分欠ける。この年文政元年と改元した。改元したのは四月からであった。この年より「二歩金」(1両の半分・約50.000円)金貨が出始める。四月十四日十五日大霜降る。それより四五日過ぎの二十日大霜が降った。草木の葉はもみじののように赤く焼けたようになった。

六月二日の晩から三日大雨降り大洪水となった。野山の水が溢れ出し、田や畑が破壊された。新しく貨幣の鋳造を言いつけられた、「二歩金」である。一両の替わりに二枚使うことになった。六月二十五日晩、寒露が降りた。」以上でこの年の記録は終わっている・「巣郷本」「下幅本」「白木野本」「草井沢本」の記録者は夫々独自の取材構成の記録をしていることが強く感じられた。《「歴史年表」から「幕府、鎌倉で大砲を試射。イギリス人ゴルドン浦賀にて通商を要求、幕府はこれを拒否する》

沢内・古沢家のこと=天明6年に沢内・古沢家で初めてちゃんとした戒名を貰った女性が死去しています。梅顔妙香禅尼という春の梅の香りを思わせる艶やかな戒名。この女性が代官・古沢長作の想い者だったと想像しています。

戒名は玉泉寺の第一二世・獅山大哮大和尚。梅顔妙香禅尼の生んだ子が沢内・古沢家の中興の祖となった古沢屋善蔵。それまでは古沢家は家名がなくて”善兵衛かまど”と呼ばれていました。

雫石の古沢屋理右衛門も屋号を持っています。一介の百姓や町人が屋号を持つのは、江戸時代では珍しい。古沢屋善蔵は代官所下役を飛び越えて、盛岡藩の御境古人・御山古人の登用されて、帯刀まで許されています。やはり古沢代官の引きがあったと考えるのが妥当です。(古沢襄)

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