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四散しても末裔を残した安倍一族の系譜 古沢襄
天孫族に抵抗した北の王者の頭領・安倍貞任は、厨川柵(盛岡市)で戦死して一族は四散したが、その末裔は歴史に名を残している。私の小学校は東京・新宿区の愛日小学校といったが、仲の良い同級生に広沢中任(なかとう)さんがいる。兄は高任(たかとう)さん、弟が末任(すえとう)さんの三人兄弟。

曾祖父は会津藩士・広沢安任で、戊辰戦争で敗れて、遠く下北半島に流され、その地で畜産業を始めて成功した。この広沢安任は「奥隅(おくぐう)馬誌」という著作を遺している。

当時は広沢牧場主の一家という程度のことしか知らなかった。戦後になって競争馬のサラブレットで「ヒロ」がつく馬は広沢牧場から出ていると教えられた。ある時、中任さんが「東北の安倍一族の末裔なんだってさ・・・」と言う。貞任も宗任も知らなかったから「フーン」と言って聞き流した記憶が残る。

戦前の教科書には安倍一族のことは、ほとんど出ていない。朝廷に刃向かった”賊徒”という程度の扱いであった。「炎立つ」を書いた高橋克彦氏も「安倍一族と源氏の戦を記録している資料は、陸奥話記を除くとほとんどないに等しい」と嘆いている。

安倍一族の興亡史は戦後になって光が当てられたと言っていい。それは安倍貞任が厨川柵で戦死した後も、その末裔が歴史上の足跡をしっかり残して、妖しい光芒を放っている。

奥州藤原氏の祖となった藤原清衡(ふじわら の きよひら)は、厨川柵の戦の当時は七歳。母は貞任の妹だったから、捕らえられて母とともに処刑される運命にあった。事実、父の藤原経清は処刑されている。

だが、美貌だった母の色香によって清衡は救われた。安倍氏を滅ぼした敵将である秋田の清原武則の長男・武貞に母は見そめられた。、再嫁することになった母によって清衡は危うく難をのがれた。連れ子の清衡も清原武貞の養子となっている。母と子が処刑されていたら奥州藤原三代の栄華も生まれなかったことになる。

貞任の遺児・高星丸は厨川柵の戦いの当時は三歳。近臣に守られて落ち延び、津軽の地・十三湊で安東氏の祖となっている。興国の大津波で安東氏は祖地を失うが、一部は渡島いまの北海道に移った。岡本太郎氏のルーツが安倍一族だというのが事実とすれば、この系譜ではないか。

安倍晋太郎氏は安倍宗任の四十一代目の末裔を誇りとしていた。貞任が武勇に優れた猛将とすれば、宗任は知略に優れた知将といえる。貞任、宗任らの親は安倍頼良、十二人の子がいた。正室辰子(新羅之前)の間に生まれた実子は長男良宗・次男貞任・三男宗任。良宗は盲目であった。

貞任を滅ぼした源頼義・義家父子は捕らえた宗任を京都に護送したが、公家衆は宗任の処刑を求めている。宗任の知略を惜しんだ頼義・義家は助命を嘆願して、四国の領地に宗任を連れていっている。やがて肥前国松浦(まつら)で領地を賜り、宗任は宗像郡大島で七十七歳の生涯を閉じた。宗任の墓は地元の安昌院にある。宗任が京都で処刑されていたら、安倍晋太郎氏も安倍晋三総理も生まれなかったことになる。

もっとも晋三氏には晋太郎氏のような安倍一族に対する思い入れがないという。むしろ母親の岸元総理の長女・洋子さんの影響があるから、”長州っぽ”であることの誇りが勝っているのかもしれない。

平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されている。鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」とも出ている。

安倍一族で四男照任以下は安倍頼良の正室の子でははないとされている。この中で五男・黒沢尻五郎正任が黒沢尻柵(北上市)を中心にして勢力を扶植していた。康平五年(1062)、源頼義の征討軍によって安倍一族の南端の防衛線だった小松柵(一関市谷起)が落城した。西からは秋田の清原氏の軍勢が迫ってきた。

秋田の清原武則が源頼義に呼応して安倍の領内に攻め込んできたわけである。全軍を指揮した貞任は、敵を懐に誘い込む戦術をとり、厨川柵で雌雄を決する防衛策に出た。黒沢尻五郎正任も僅かな手勢を黒沢尻柵に残して厨川柵に入った。康平五年九月のことだという。手薄となった黒沢尻柵には秋田勢が殺到して、たちまち落城している。

黒沢尻柵の落城に際して、黒沢尻五郎の正室の阿波見と長男孝任は東の北上山脈を越えて三陸海岸に落ち延びた(豊間根家譜)。黒沢尻五郎には妻子を連れて厨川柵に行くいとまがなかったのであろう。それが黒沢尻五郎の血脈を三陸沿岸に残すことになった。

安倍一族の末裔である豊間根家譜に次の記載がある。

<<正室の阿波見と長男孝任は下女二人、従者ともども十七人で北東閉伊地陸中の海辺に落ち、この地の味兵邑に土着した。名は安倍から阿部、石至下、石峠、豊間根と変えて、朝廷軍の追及を逃れた。

居所も大槌、糠森と変え、山田線の豊間根駅は山間部に近い。豊間根村は町村合併で山田町豊間根となる。また黒沢尻五郎は厨川柵の落城後、秋田に逃れたが、数ヶ月後に捕まり伊予国に流されて、その地で没した。>>

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