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佐藤栄作に学ぶべきだ 岩見隆夫
「楠田實日記−−佐藤栄作総理首席秘書官の2000日」(01年・中央公論新社刊)の1972年5月15日付には、<沖縄返還記念式典。総理は力強く式辞を読んだ。途中で涙が出たようだが、最後まで変わらなかった>

と短い記述しかない。だが、7年8カ月に及ぶ長期政権の集大成の日だった。長年、佐藤に仕えた楠田は、万感胸に迫るものがあったに違いない。

38年前のきょう15日、沖縄復帰を祝う式典が東京・武道館で催され、天皇、皇后両陛下、米国からはアグニュー副大統領が参列、会場は1万人の関係者であふれた。佐藤は式辞で、

「……今日以後、私たちは同胞相寄って喜びと悲しみを共にわかちあうことができるのであります……」と言い、声をつまらせた。

今回、普天間飛行場移設問題の処理にあたって、沖縄と本土の同胞が相寄りながら向き合ってきたか、という忸怩(じくじ)たる思いが本土側の私たちにはある。

初代の沖縄開発庁長官を務めた鹿児島出身の山中貞則は常々、「米軍が沖縄に上陸していなければ、志布志湾に上陸し、鹿児島がひどい目に遭っていた。沖縄には足を向けて寝られないね」

と言っていたという。沖縄復興への山中の熱意、献身は並でなく、強いしょく罪意識に裏打ちされていた。04年、82歳で死去した時、沖縄の地元紙は、親愛をこめ、<救世主>などの賛辞を贈った。いまの政界にヤマテイはいるか。

また、さきの式辞で、佐藤は、「戦争によって失われた領土を、平和のうちに外交交渉で回復したことは、史上極めて稀(まれ)なことで、……」

と自負を語っている。佐藤政権は沖縄で始まり、沖縄で終わったと言っていい。だが、<待ちの政治家>のニックネームがついていた官僚出身の佐藤が、なぜ沖縄返還に着眼し、決断したかは、いまも研究者の間で疑問のまま残っている。

政権発足(64年11月)の最初から佐藤は沖縄返還を中心課題に据え、政界は、「まるで焼身自殺だ」と危ぶんだ。実現できもしない目標を掲げれば、佐藤政権はつぶれるだろう、とみたからだった。

しかし、佐藤は意に介さない。翌65年早々に訪米、夏には沖縄を訪れ、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」

と有名なセリフを述べた。結局、5度の訪米でジョンソン、ニクソン両大統領と返還交渉を重ね、<核抜き・本土並み>の合意に至る。

世間と政界は終始半信半疑、外務省は必ずしも協力的でなかった。だが、佐藤はねばる。その手法について、ブレーンの一人だった千田恒元東海大教授は、

<決して性急なものではなく、じっとうきの動きを見ながら、釣糸をたぐるタイミングをはかるのにも似ていた>

と書き残している(「佐藤内閣回想」87年刊・中公新書)。執念が結果的に長期政権にもつながった。

性急でなくタイミングをはかる周到さが肝心なことを、佐藤による返還交渉は教えている。佐藤が父親代わりの愛弟子、橋本龍太郎元首相の普天間返還交渉も周到にして執拗(しつよう)だった。

鳩山由紀夫首相は周到か。佐藤の逆を行っている印象が強い。性急に流れ、タイミングを見誤っている。山中貞則の心情に立ち戻り、佐藤栄作の手法に学ぶことをすすめたい。せいてはことを仕損じる、だ。(敬称略)

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