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「沢内年代記」を読み解く(十三)  高橋繁
安永四年 乙未(キノトヒツジ・・・1775年の記録)
―銃鷏邂貽 日蝕。
二月七日 赤雪降る。(赤雪は、中国から季節風によつて運ばれてくる黄砂のこと。現在も二月初めから三月にかけて降る。白い雪に積もるので冬は目立つ)積もること六寸余り(1寸は3.3cm。6寸は約20cm)。黄砂だけでなく雪と混じって積もった量と思われる。それにしても、一日に降った量としては記録的に多い量である。

世の中、中の上。(米、作物の出来具合は中の上。平年作より少しよい出来であった。)
ざ綏酘鷭銃 安宅(ヤスミ)七右エ門、宮清兵衛が、作柄検査(御毛見)に来た。平年作を基に出来具合を調べられ、年貢割合を申し付けられた。ただし、凶作の場合は作柄検査をするとのことである。この年より、作柄検査によって年貢割合に増減があることになった。

ァ崛隶翅本」には、「十二月閏あり。正月六日六つ時(六時・午前か午後か不明)地震があった。 二三度ゆれた。三月十日まで雪降る(現在暦では四月十日頃まで雪が降った)。風が吹き年内の気候は思いのほか荒れた。四月十四日に苗代に種を撒く。撒いてから三十三日になる前に、稲の苗ができあがり、田植えも終わった。

先の十二月九日の晩地震があった。閏の十二月六日朝にも地震があった。(十二月が二回繰り 返す閏年であったことから、最初の十二月が先の十二月となる)土用(陰暦の立夏・立秋・立冬 ・立春の前の十八日間をいう。一般的には立秋前の夏の土用をいう)の内まで水が多かった。水が枯れることなく、適度に雨が降ったということと考えられる。葛の花が多く咲いたが、実が入らなかった。原因は不明であるが、花粉を運ぶ蜂などの虫が少なかったのではないかと考えられる。川には鮎、鱒が遡上しなかった。水量が多かったというのに鮎や鱒が遡上しないということも解らないことである。

ひくざくら(ひきざくら・こぶしの花の古名と思われる)まんさくの花は咲かなかった。しかし、田畑の作物の出来具合は中の上であった。思いのほかネズミが多く、それを狙う鷲、鷹、ふくろう等の猛禽類が多かった。山々の畑の芋、大根などの根菜は皆ネズミに喰われた。年貢割合は一反歩あたり(米の作付け面積)15%が利助・七右エ門。14%が長八。畑は10%であった。

入石(他藩から買い入れた米)は、十八文から二十文まで。(1文は現在の貨幣価値からすれば30円から50円までの変動があったのではないかという説もある。この場合は米1升・1.5圓涼傭覆隼廚錣譴襦1文30円とすると540円から600円。1文50円とすると900円から1.000円ということになる。)下売り(小売)価格は一升あたり十六文から十八文まで。」と記録されている。

安永五年 丙申(ヒノエサル・・・1776年の記録)
‥槌の作物の出来具合は中ぐらいのできであった。去年の割合で入石(他藩からの買い入れ米)は三十二文(「巣郷本」だけが二十二文となっている)。大豆十七文。小豆十五文。(それぞれ一升の値段)
御買い上げの米価は一石(一石は150圈砲砲弔、一斗二升(1斗は15圈Γ云は1.5圈砲鯒爾瓩襪茲Δ北燭犬蕕譴拭1石を売っても、8斗8升分の代金しか受け取れなかったことになる。

では、1斗2升の税はどこで、どのように使われたか。そのことに触れる資料は現在のところ見当たらないということである。さしずめ大部分は「裏金」として使われたのではないだろうか。担当者の判断によって消費されたと考えられている。つまり、「沢内通り」においては、沢内代官所内の判断によって消費されたと考えられている。「邦内郷村誌」(江戸末期、和賀地方や県北地方の代官所の役人を務めた大巻秀詮が記録した文書。八冊がある。)には、代官所ごとに税の取立て、使い方は一定していないことが記録されているという。
8涎酘鷭衆貽 寒露(晩秋から初冬にかけて降りる露。俗に露霜ともいう)降る。(この項の記録は「下巾本」のみである。)
じ翅經院ヾ箚崕熟艮Ε門、漆戸藤右エ門。
ァ崛隶翅本」には、十二月十四日月蝕。夏中、和賀川も沢々の水も多かった。七月二十三日の晩は雷がなり大雨が降った。二十四日には大水出る。盛岡の船橋(北上川に船を繋ぎ合わせて作った橋)が流されたということである。湯田橋の上を川が流れた。川岸近くの田は破壊され大被害を受けた。

九月十日晩大雨降る。十一日には沢水が溢れ苗代に流れた。夏中秋まで雨が降り続いた。この年は田も畑も四分の一も収穫できなかった。葛の根を掘った。(葛の根から澱粉を採り食料とした)大不作であった。 六七月より麻疹(はしか)流行する。十一月頃までは、田一反歩(300坪・約991.7屐砲△燭15%の課税は利助、七右エ門、14%が長八。水尻田(みなじりた・最後に水が行き渡り、流れ落ちる田)畑への課税は10%であった。

大豆、小豆は良く出来たといえる。田畑共に虫が食った(水田の他に陸稲も栽培していた)。粟は枯れてしまった。入石は三十五文(「巣郷本」「下巾本」「白木野本」の記述より三文高くなっている)。小売は一升二十六七文位であった。御買米沢内総高(代官所を通して藩が買い上げた沢内通りの米の総量)は五百駄。(1駄は1頭の馬に負わせる量・米7斗・105圈500駄は3500斗で、350石(52.5t)である。

当地の値段は一石あたり一貫九百文(1900文・1文30円とすれば57.000円、1文50円とすれば95.000円)。また、一石あたり一斗二升の税を納めた。一升が二十五文として、当時の沢内通りの農家収入はどれほどであったか不明であるが、かなり高額な税である。

安永六年 丁酉(ヒノトトリ・・・1777年の記録)
‥槌の出来具合は下作。年貢米は昨年の割合で仰せ付けられた。御買上米は一石につき一斗三升の税を納めなければならなかった。
御代官は岩間十郎右エ門並びに漆戸藤右エ門であった。
この年十月 太田の惣左エ門、平五郎、新町の三四郎、松兵衛、高橋仁左エ門の鍬頭(くわがしら・農作業の責任者)弥兵衛、槻沢の長四郎が相談の上、高札(法や命令を知らせる立て札・公示板)を外し、田に打ち込み散々に打ち破り、隠密にしていた。

しかし、代官所の知るところとなり盛岡より本堂源右エ門が同心を引き連れて来られ、上記六人に縄を掛け盛岡の牢屋に入れらることになった。高橋恒右エ門の役屋で大小の刀を取り上げられ田名部(青森県下北)に流罪となった。この時の捜査吟味により、六人の他に縄を掛けられた者数人あり大騒動となった。高札に告示された内容は不明であるが、年貢、税にかかわる内容であったと思われる。数年にわたる不作にもかかわらず税が増えたことに怒りを覚え、実行に及んだに違いない。

「下巾本」には、「六月高橋仁左エ門は野田通、高橋武治右エ門は大迫通、久保弥市右エ門は沼宮内通に追放された。」と記録されている。この三人は沢内出身の役人である。十月の「高札打ち壊し事件」との関係の有無が問題である。

前に追放されたのであれば、十月の前に記録されるのが普通と思われる。「事件」の後に「六月」と記されているので理解しがたい。十月の事件の後の「六月」は次の年になるからである。もし「事件」の後だとすれば、この三人の役人は関係があったことになる。「六月」は誤記なのかどうか、原文を確かめたい。

安永七年 戊戌(ツチノエイヌ・・・1778年の記録)
\い涼罅中作。米をはじめとする作物の出来具合は中作であった。年貢等の税の割合は安永四年の割合と同じとされた。入石は一升三十六文。大豆、小豆は十八文。
∩阿稜の項に記した、追放になった三人の役人は十二月に共に免職となった。下役の小田嶋條右エ門も免職になつた。御代官岩間十郎右エ門、漆戸藤右エ門の二人はこの三月に一度に免職となつた。代わりの代官に神平右エ門、米倉悠が来られた。

8翡稱胴癲僻佑買う米の量)一石(150kg)につき一斗八升(16.5圈砲寮任課せられた。沢内に千駄(1駄は7斗・105圓箸靴瞳彁擦垢襪105t)売るように仰せ付けられ、はなはだ迷惑なことであつた。(この項「下巾本」のみに記録されている)「迷惑」の言葉には、生きるか死ぬかの生活なのに、それを無視して割り当てた者に対する怒りが込められている。
で賄召瞭察覆Δ泙海蹐个靴瞭察η呂転ぶような危険な道)を新たに東の沢の方に造り替えた。

ァ崛隶翅本」には「閏七月あり。正月十一日午前十時過ぎ、十九日午前八時、二十日午前四 時にそれぞれ地震があった。五月二十二日、二十三日朝霜降る。六月八日、十八日寒露(露霜)降る。八月二日朝、九月十日の晩地震で揺れた。春より秋まで雨降り、水多く、暖かくなかった。田畑共に半作の内に入るのだが、思いのほか不作であった。秋米(新米)一升、三十九文から四十文位であった。

黒沢尻通りでは、米一升五六十文位。この年年末まで雪が降らなかった。年貢割合は去年より三歩安くなつた。一反歩あたり12%利助、七右エ門。11%長八。入石は三十八文であるが、肝入(村長・役人)では三十九文になる。御買米四百駄(草井沢地区の割り当て量と考えられる)値段は一石あたり二貫五百文(150kgおよそ75.000円から125.000円と思われる)一升につき三十三文ずつの課税があった。

安永八年 己亥(ツチノトイ・・・1779年の記録)
\い涼羃失遏J討鬚呂犬畴精酳の出来具合は例年より悪かった。
年貢の歩合(課税割合)は昨年より一歩(1%)余り安くなった。出来高全体の平均から割り出された歩合である。
8翅經韻倭闇と同じ、神平右エ門、米倉悠(ハルカ)。

じ翡秕緤董僻佑買い上げる米)千駄(1駄は7斗・105圈北燭犬蕕譴拭0貔弌10斗)につき二斗三升の税を納めることであった。一石あたり七斗七升分の代価にしかならなかった。
ヅ騨邑翳去。以上,らイ泙任蓮峅雫卷棔廚茲蝓「巣郷本」「白木野本」は一行の記録で終わっている。《南部藩第三十四代藩主利雄公が十二月五日盛岡において薨ず、年五十六、在職二十八年、聖寿寺に葬る。・・・・公性寛仁にして家を嗣ぎてより細大の政務皆家老に委し、そのいうところ一も拒むなく皆「そうしろ、そうしろ」と言いたりとて、世人は公を総四郎という・・・「南部史要」より》

Α崛隶翅本」には「十月十六日月蝕。二月八日の晩、七月一日朝地震があった。五月三十日北上川洪水となり盛岡の舟橋が流されたという。黒沢尻の川岸では家が流され、田地も崩落し人も流されたと言うことである。春より六月十日まで雨風の日が多かった。土用に入って二十五日まで天気は良かった。

八月二十五日大風吹き、粟、ソバの実が吹きこぼれた。沢内全体の課税割合は田の収穫の22%、畑は12%。入石(他領から買い入れた米)は一升あたり三十文より三十一文までで肝入(村長)に入る。 この春雪降らず、正月より雪が降らなかった。」とある。なお、同年の記録でも内容が重複するもの、「巣郷本」「下巾本」「白木野本」の内容と重複するものは省略した。

安永九年 庚子(カノエネ・・・1780年の記録)
(董農作物の出来具合は下作。課税割合は昨年の割合よりも四歩(4%)低くなった。御買上米は一石につき、一斗一升六合の税を課せられた。改元あり「天明」となる。「下巾本」。
◆崛隶翅本」には「四月十五日 月蝕。正月二日の朝、三月四日、四月六日朝、六月三日正午六月七日朝に地震があった。六月十九日午前四時には大地震があった。地震のため白木山街道に地割れが生じた。この日は晩まで十七八回もゆれた。地震は時々二十五日まで続いた。

七月七日晩、七月二十五日晩六時、八月二日朝、十月二十八日にそれぞれ地震があった。十月より仙人峠(北上市と西和賀町の境)にお堂の建設が始まり、十一月十七日に完成した。和賀川に鮎、鱒が遡上しなかった。ひぐ桜(ひきざくら・こぶしの花の古称と思われる)の花多く咲く。葛の花多く咲いたが実らなかった。ブナぐるみが多く実ったが、栗は実らなかった。

大根は蟻食いのためか腐った。大根は一つもなくなった。総体的に作物は細身にできた。家の向かいの田んぼの稲は、虫が食い想像以上に悪かった。稲の丈は枯れがちで短かった。課税は収穫高の11%が利助、七右エ門。10%が長八。水尻の田は6%、畑(陸稲)6%。入石は一升三十文で、小繋沢(こつなぎさわ)徳兵衛方に入る。

御買上米は一石につき一斗一升五合三勺の税を課せられた。これは「下巾本」の記述より四合ほど割安になっている。お値段は一駄(7斗・105圈砲砲弔一貫七百文(51.000円から85.000円ほどか)一升(1.5圈砲砲弔二十二文九歩五厘(1文30円とすると約690円。1文50円とすると約11.50円となる)。川の水量は枯れることなく、春から秋まで多かった。  

古沢襄記=「沢内年代記」は、昔の沢内通り、現在の西和賀町(合併前の沢内村と湯田町)に古くから伝承された民間の年代記である。幾種かの異本があって、最初の筆録者が誰なのか分からない。異本があるのは、原本に何人かの人が追記を重ねてきた結果であろう。

昭和33年に太田祖電氏(元沢内村長)が中心になって「沢内年代記」の現代語版が発刊された。その後、昭和42年に古文書の原文版も発刊されている。郷土史に光を当てた太田祖電氏は碧鳥住職として健在だが、その功績は大きい。

現代語版と原文版が発刊されたことによって、郷土史家の研究熱が高まり、「沢内史談会」が設立されて、年代記の不明な点、誤字、脱字の検証が行われてきた。原本とされてきた「巣郷本」だけでなく「下巾本」「白木野本」「草井沢本」と合わせて、年代記を読み解くことも根気よく続けられている。平成12年には旧沢内村教育委員会から「陸中国和賀郡 沢内年代記(総集編)」が発刊された。

この発刊に当たっては、教育長だった高橋繁氏(西和賀前町長)が古文書研究の権威・佐々木政蔵氏、和賀氏を中心とする中世・近世史に詳しい千葉末吉氏、高橋順平氏の協力を仰いだ。また史談会事務局長だった加藤昭男氏(沢内村長 故人)も参画している。

杜父魚ブログに連載中の「”沢内年代記”を読み解く」は、これらの積み重ねの上で、高橋繁氏が筆をとった「解説版」という位置づけを私はしている。単なる地方史本というよりは、奥羽山脈の懐に抱かれた寒村で生きた人々の生活史といえる。すでに十三回を数えたが、「沢内年代記」は江戸時代の延宝元年(1673)に始まり、原本は文化9年(1812)まで続いている。

高橋繁氏の力作は安永九年(1780)まで来たが、原本に限れば、なお32年間を残している。異本に繋げれば相当の年月が必要になる。ここ二回ほどは、体調を崩された高橋繁氏なのだが、ようやく回復の兆しがあると知らせて頂いた。健康に留意されながら、執筆を続けられることを祈る気持ちでいる。という私も病身の身体なのだが・・・。

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