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我レ敵空母ニ突入ス、17・21 西村眞悟
表題は、秋田県出身の十九歳の山本英司海軍少尉が、神風特別攻撃隊神雷部隊第九建武隊員として、昭和二十年四月二十九日、鹿児島県鹿屋基地より、五百キロ爆装の零式艦上戦闘機で出撃し、沖縄本島東方の敵艦船群に体当たり攻撃を敢行するに当たり、最後に打電したものである。

私は、昨日平成二十二年四月二十九日、秋田県総社神社拝殿において、海軍航空隊における山本海軍少尉の同郷にして同期生である藤本光男氏の「追悼のことば」の中でこの打電を知った。
 
四月十九日、イスラエルの首都エルサレムにおいて行われたイスラエル戦没者記念祭に出席した私は、十日後の二十九日、秋田市川尻総社町の総社神社において行われた、秋田県特別攻撃隊招魂祭に参列させていただいた。

イスラエルにおける戦没者記念祭の前日午後八時と当日午前十一時には、サイレントともに全イスラエルが二分間の黙祷に入り、全戦没者の氏名が読み上げられていくという。

その情景に感動した私は、秋田市総社神社の特別攻撃隊招魂祭に参列し、秋田県出身の散華した全ての特別攻撃隊員の名前が神前で読み上げられるのを慟哭の思いで聞いていた。

その前の、藤本氏の追悼のことばが、まざまざと甦った。

氏は、「まだ生きていたのかと戦友から呆れ顔で言はれはしまいかとの気おくれもありましたが、語りても語りてもなお尽きざる思いで、ここに立っております」と前置きして、次のように語られた。

「(碑に刻まれた山本英司少尉の名を)『山本、山本』とつぶやきながら、指でなぞっていうちに手のひらまで真っ黒になってしまいました。思えば、今日が山本君の命日です。

昭和二十年四月二十九日、「ワレ敵空母に突入ス、17・21(五時二十一分)」と打電、壮烈な体当たり攻撃をかけたのであります。

出撃地鹿屋から沖縄まで六百五十キロ、零戦をかつて二時間半、語る相手もなく、ひたすら孤高の任務達成、即ち死に向かって大海原を飛び続けた、十九歳の山本英司君。

何を考えていただろうか。海を観ながらフト思いました。しかしその思いをめぐらすのは、為すことなく老いた今の自分です。恥ずかしいと思いました。

山本君は特攻戦友達と同じく、敵艦に突入するためのあの厳しい訓練の一齣一齣を脳裏にきざみながら目的達成に渾身の操縦を続けたのです。「ワレ敵空母ニ突入ス」。

任務即ち人生を全うした者の充実感が読み取れます。」

この「追悼のことば」を聞いたとき、腹の底から感動した。何故なら、この「追悼のことば」は、前に紹介した吉田満氏の「戦艦大和の最後」がGHQによる検閲を受ける前の精神で貫かれているからである。即ち、英霊を讃え敬仰する精神である。

即ち、戦艦大和生き残りの吉田満氏は、生還直後、一気に「戦艦大和の最後」の末尾を「至烈の闘魂、至高の練度、天下に恥じざる最後なり」と結んだ。

(GHQの検閲後は、「彼ら終焉の胸中果たして如何」と代わっている。これこそ、藤本光男氏が、追悼のことばで、「・・・何を考えていただろうか、・・・思いをめぐらすのは、為すことなく老いた今の自分です。恥ずかしいと思いました」、そのものである)。

山本英司少尉の最後の打電、「ワレ敵空母に突入ス、17・21」。まさに「至烈の闘魂、至高の練度、天下に恥じざる最後なり」である。
 
紀元七十三年、死海の西岸、マサダの砦で玉砕した九百七十六人のユダヤ人が、イスラエル建国と防衛のスピリットを現在に与え続けているように、我ら日本民族の国家再興の精神は大東亜の海に陸に散華した英霊とともにある。

「栄光の死は、屈辱の生にまさる」を実証しているのである。二十世紀にこの事を世界に示しているのが日本人である。

この秋田市の「特別攻撃隊招魂祭」は、本年で十九回目を迎える。その始まりを是非知っていただきたい。藤本氏の「追悼のことば」が言う。

「この千数百年の歴史をもつ総社神社境内に桝谷建夫様が、まさに精根を込めて建立された『特別攻撃隊忠魂之碑』。その除幕から毎年執り行われております特別攻撃隊招魂祭が年を重ね、第十九回となりました。」
 
ここに紹介された桝谷建夫氏は、昭和二十年八月に至っても、特攻出撃の命令を今日か明日かと待っていた方である。第三特攻戦隊川棚突撃隊海軍震洋隊基地員、海軍工作兵長であった。

氏の総社神社境内に「精根を込めて建立された碑」を拝した。その碑とともに、桝谷氏は「書碑」を編纂されている。

その「書碑」とは、秋田県出身の全ての特攻隊員の氏名と写真そして手記を綴った冊子である。氏が、その序文に言う。

「・・・戦後の日本人は、物的繁栄を求めることには熱心であるが、国難に殉じた戦没者の顕彰は殆ど顧みません。国家的な忘恩と言うべきでしょう。」と。そして、

「その尊い英霊を祀る靖国神社護持法案をいつも廃案にする政治家に対し、私は悲憤のみか、ついには絶望を深くするばかりになりました。・・・選挙ともなれば甘言巧言をつらねて民衆に媚び、あたかも票乞食のような醜態を見るにつけ、我ら一介の草莽といえども国の前途を思い暗澹とせざるをえません。

翻って若き日、彼らと共に生き、彼らと共に戦い、そして生き残った己れ自体は死せる戦友に対して何をしてやったのか、政治批判をしてこと足れりとするのかと自問するに至り心底深く恥じました。

昭和四十八年六月私は、秋田県戦没者の顕彰を社業として実施することを会社の取締役会に提案してこれを決議いたしました。・・・」
 
このようにして、総社神社境内の碑が建立され、そして書碑である「我レ戦艦ニ突入ス 秋田県の特攻隊員 ツバサ広業出版部」(秋田市川尻町字大川反233番42号、ツバサ広業株式会社、昭和53年6月15日発行)が編纂された。

そして、この社業になった戦没者顕彰の精神を引き継いだツバサ広業株式会社社長の桝谷政雄氏が、この「書碑」を私にお送りいただき、二十九日の、尊い、まことに尊い、厳かな「招魂祭」に参列させていただくご縁が生まれたのである。

私がここに、二十九日に参列させていただいた秋田県における「特別攻撃隊招魂祭」をご報告する所以は、この招魂祭が、精神において、霊において、力において、イスラエル建国の精神に匹敵しているからである。

片道飛行時間、十数時間を要して参加するを得たイスラエル戦没者記念祭と同じ崇高な民族への愛と至情と英霊との霊的同一性と国家再興の力が秋田市の総社神社にあった。

まことに、この四月、エルサレムと秋田総社神社。ありがたい、すばらしい、英霊の顕彰の聖なる場に参列させていただくことができた。

心より、その機会を与えていただいた秋田の皆様に感謝し、英霊に命令されたように、我ら、必ず誇りある日本を再興する。

なお、付言しておきたい。先に、イスラエル報告で、戦没者記念日におけるイスラエルの女性兵士は美しい、と報告した。同様に報告する。四月二十九日の秋田の女性も、昔からいわれるとおり、美しかった。

式場で読み上げられた特攻出撃者の年齢は、皆、二十歳代前半と十代後半だ。その式場に美しい人々がいる。まさに、澎湃としてそこにいます英霊は、皆若き青年で、如何ばかり喜ばれたことであろうか。

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