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無礼に怒った鎌倉武士の面目 古沢襄
日本の中世史で興味を惹かれるのは、朝敵・逆賊といわれた足利尊氏が開いた室町幕府である。この時代に中国大陸や朝鮮半島との交流が顕著となって、華麗な室町文化が花開いている。さらには、その前史となる鎌倉幕府とくに北条執権時代が面白い。

皇国史観で覆われた戦前・戦中には、この時代の扱いが小さく、奈良・平安朝から戦国時代にかけての歴史の中でスッポリ抜け落ちた観さえある。だが蒙古が襲来した文永の役と弘安の役は、執権・北条時宗が不退転の決意で国難に立ち向かった事績として広く伝えられた。

「北条九代記」という歴史資料がある。『吾妻鏡』『保暦間記』『源平盛衰記』『太平記』などを参考に江戸時代に書かれた鎌倉北条氏の物語なのだが著者は分からない。北条執権九代の事跡を物語風に記述している。鎌倉幕府というと源頼朝が開いた武家政権だが、尼将軍といわれた北条政子を中心とした北条氏が実権を握った政権といえる。

公家が実権を握った宮廷政治から、武家が権力を掌握した大きな歴史転換期であった。その時代に日本は蒙古襲来という国難を迎えている。この国難について「北条九代記」は詳しく記述しているが、一貫してモンゴル帝国=大元に関する知見が乏しいきらいがある。あるのは未知の大国が日本に送ってきた書状の無礼さに怒った武家の面目が浮き彫りにされている。

文永五年(1268)に大元の皇帝・フビライが国書を日本に送ってきている(北条九代記)。国書は筑紫の太宰府から鎌倉に送られたが、幕府から直ちに宮中に伝えられた。亀山天皇は勅命を下して、宰相・菅原長成に返書を書かせた。

北条九代記によれば、<<幕府では宮廷とは別に内密の評定をして「蒙古の書面はすこぶる無礼である」といって返書を送らなかった>>とある。有り体にいえば、天皇の返書を武家政権が握りつぶしたことになる。

ここで蒙古=大元が日本に国書を送った背景をみなければならない。

モンゴル草原で興った蒙古族はジンギス汗の下で河北を平定し、金王朝も屈服させて、”西征”を開始した。疾風の様なモンゴル騎兵は百戦連勝、ロシア平原をまたたく間に席巻して、ポーランドに兵を進めた。本格的なヨーロッパ征伐は太宗の時代になるが、五〇万の軽騎兵をもってヨーロッパの重騎兵を鎧袖一触、ことごとく破っている。

だが、その版図が広大になったために、部族間の抗争が起こって大帝国も衰退期に向かう。フビライが即位した1260年は、蒙古が中国大陸における支配権を固める時期と重なっている。南宋を屈服させることによって中国における支配権を確立し、さらには朝鮮半島の高麗国のモンゴル化に努めた。

高麗国のモンゴル化は南宋の攻略に必要な地理的な理由があったとされている。ここで出てきたのは、南宋と日本の通交からくる両国の提携である。両国の関係・連絡を絶つ政略は、高麗国から亡命した臣下の策だといわれた。

しかし陸戦で百戦百勝のモンゴル騎兵も海を越えて日本に攻め入るのは初めての経験になる。まずは戦争よりも、威嚇によって日本を屈服させる策がとられた。

文永五年の国書は、フビライが高麗国に命じて潘阜が使者となって日本にもたらされた。国書は平和的な通好を勧めているが、これが入れられない時には兵を用いるという文言が末尾に記されていた。鎌倉幕府の執権・北条政村は、この書辞が無礼だ怒り、返書を与えずに潘阜らを追い返した。

このあと文永六年(1269)と同八年(1271)にも蒙古使と高麗使が来たが、北条時宗は返書を与えずに追い返している。朝廷側の態度は微妙であった。幕府の強硬な態度を憂え、蒙古の要求を拒絶するにしても返書を与えることを求めていた。時宗の若さに対する危惧が朝廷側にあったのではないか。

北条九代記は<<ここ数年、日本からはとうとう一度も返書を与えなかった。それなのに毎度、使者を送ってくる。これは礼儀にもかなっていない。また和親の信書という内容でもない。わが国の内情を窺い、乱などに乗じて攻撃しようとするために違いない。また再び、来たりならば一人も本国に帰すまい。みなことごとく首をはねてしまうがよい。>>と勇ましい。

文永十一年(1273)に蒙古・漢連合軍一万五千と高麗兵八千が朝鮮半島の合浦(馬山浦)を発した(中国側資料)。北条九代記には<<蒙古の賊船が、大将二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、人数にして二万五千が押し寄せた。>>とある。

文永の役といわれる日本侵攻だったが、陰暦十月二十日に博多湾を襲った猛台風によって蒙古の軍船が沈没、一万三千五百の蒙古兵がことごとく溺死した。沈没を免れた敵船は合浦に帰投したという。陸戦では百戦百勝のモンゴル騎兵も海戦には不慣れであった。台風の季節に大小千艘に近い軍船を連ねて来襲する過ちを犯している。対馬、壱岐、九州の沿岸に上陸しながら、日本側の夜襲を恐れて夜は軍船に戻る安全策が仇となった。

だがフビライは諦めない。文永の年号が建治に改まった建治元年(1275)に大元は宋の国都・臨安を落とした。宋は江南の国だったから、降伏した宋将には水戦に長けた者が多くいた。宋の降将・笵文虎を顧問にして二度目の日本侵攻計画を立てている。

弘安四年(1281)に博多湾に来襲した蒙古軍は兵船六万艘、兵員十万(北条九代記)。閏七月朔日は陽暦の八月二十三日に当たる。台風シーズンの二百十日の少し前である。七月二十九日夜半から翌閏七月朔日の払暁にかけて玄界灘を襲った猛台風は博多湾の蒙古兵船を翻弄して打ち砕いた。

「元史 日本伝」によれば「十万之衆、得還者三人耳」としている。北条九代記は<<三万の蒙古兵が博多湾に漂っていたが、一人も残らずに討ち殺した。ただ、その中で三人の勇士を生け捕りにして「この戦いの結果を蒙古の王に伝えよ」と命じて大元国に帰した。>>と伝えている。

別の資料では「敗余の敵兵二千余、十五万の敵兵で還るを得るもの五分の一足らず」とあるが、この方が正しいのであろう。フビライは日本侵攻を諦めずに高麗国に命じて三度目の遠征計画を立てている。しかし度重なる外征は、大元帝国の財政悪化を招いて計画を果たせぬまま、永仁二年(1294)にモンゴル帝国の第五代皇帝フビライは死去した。これより先に北条時宗は弘安七年(1284)四月四日に34歳の若さで病死している。弘安の役の三年後のことであった。

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