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「沢内年代記」を読み解く(四)  高橋繁
元禄元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1688年の記録)  
 ̄枌翦(えっちゅうはた・岩手秋田の県境・南部藩の関所があつた)の者たちが、謀議をこらし、山内村(秋田横手市)の南郷弟助という人の家に、夜、強盗に押し入った。

しかし、そのことが露見し捕まり、七人が成敗された。七人の首は越中畑に届けられ、さらし首にされた。

さらし首にされた七人は、どんな理由から強盗に及んだのか。周囲の村人の思いは、等々についての記録はない。生活苦の限界にあったと想像されるが、当時としてはずいぶん大胆な犯行であったに違いない。

元禄二年 己巳(ツチノトミ・・・1689年の記録) 
 屬海稜不作」と記されている。「不作」というのはどの程度の収量なのか解らない。現在の「水稲収穫量調査」の仕組みは(ア)調査する田んぼを選定する。(イ)1屬△燭蠅粒数を調べる。(ウ)1株あたりの穂数を調べる。(エ)1つの穂あたりの籾の数を調べる。(オ)籾1.000個あたりの収量を調べる。各調査結果を掛け合わせて米の収穫量が決められる。

現在は、「上作」「中作」「不作」「凶作」などの表現は使われていない。「10アール当たりの平年収量」を基にして「その年の10アール当たりの収量」の割合で表されている。
  ○「良」=106%以上
  ○「やや良」=150%から102%
  ○「平年並み」=101%から99%
  ○「やや不良」=98%から95%
  ○「不良」=94%から91%
  ○「著しい不良」=90%以下

当時の「不作」は、90%以下であることは確実で、60%以下の場合もこのように表現されたのではないかと思われる。

△海稜、杉名畑より見える一帯が「大石村」として、初めて公認された。

元禄三年 庚午(カノエウマ・・・1690年の記録)    
 崑腟会爾砲童羝儀様より御助米給わる」この年、食糧がなくなり南部の殿様はお助け米を配った。南部の殿様は、「沢内通り」に限ってお助け米を配ったのではないはずである。岩手は昔から「ヤマセ」という寒波が夏季にも襲い、作物が実らず、飢饉ににることが多かった。特に県北部地方は常習地帯であつた。不思議なことに、この年の飢饉は、「歴史年表」には見当たらない。

◆嵎討涼傭福一升四十文(もん)」とある。1升は1.5kg、1文はおよそ現在のお金で50円に当たる(「武士の家計簿」磯田道史著・2003年刊・新潮社)。当時の40文は現在でいえば2.000円になる。ちなみに、現在2.000円で買える米の量は、おおよそ5kgである。

「春木」を伐ることが許可になり、春木奉行、太田四郎兵衛様がお出でになった。
「春木」は薪のことである。この地方では薪を伐り取るのは、春先の雪がある頃で、今から40年前頃まで続いた。山で伐り採った薪を運搬するのに雪上や、雪解け水の多い川を利用する他なかったからである。春木奉行は、薪伐採に当たっての管理役人と思われる。

ぁ峺翅經院⊂詭鏤葦Ε門様来る」とある。この年から、代官が常駐されたようである。次の年にも代官の名が記されているからである。1年交替でなかったかと思われる。

元禄四年 辛未(カノトヒツジ・・・1691年の記録)  
 崙鷏邂貽、日蝕。十二月十六日、月蝕があった。」
「日蝕」も「月蝕」もどの程度の「蝕」か不明。

八月が2回あった(閏有り)。
「下作」米の収穫高は「著しい不良」であった。(この記録は「白木野本」にある。)

元禄五年 壬申(ミズノエサル・・・1692年の記録) 
 屬海稜、湯ノ沢堰始めて上がる」湯ノ沢の用水路が完成し、公認された。
湯本薬師堂は下の方にあったが、この年上の岩山に移された。

「四年間の凶作で住民はたいへんに疲労している」食べるものも充分でなければ、人々は気の休まる時は無かったと思われる。
ぁ峺翅經院大川与五右エ門・城弥惣右エ門」代官所の役人は二人で常駐したと思われる。

元禄六年 癸酉(ミズノトトリ・・・1693年の記録)   
〆諺陲硫修永川原
左草川のうち大倉山の下に川原がある。この川原に化け物が住み着いているということであったが、誰一人見届けた人はいなかった。

この年、村の者五、六人大倉山に入り、小屋に寝泊りしながら薪を伐っておりました。夕暮れになると、年の頃、十六、七の女が、歯に黒々と鉄漿(かね)を付け、顔かたちも美しく、上品な着物を着て、小屋の入り口に来ては、にっこりと微笑むのであった。

しばらくして、村の助右エ門の下男である金七という者が、この女に向かって鉈を抜いて投げつけた。鉈は女の腰に当たった。女は「ワーッ」と叫んで逃げていった。金七は、下の川原まで追いかけて行ったが、

どこを探しても見つからなかった。このことがあってから、この川原を「化け物川原」と言うようになったということである。

元禄七年 甲戌(キノエイヌ・・・1694年の記録)  
 峺涎遽射り」
◆屬海稜、上作」米の作柄は、「上作」とある。「沢内年代記」始まって以来21年間、始めて使われた「上作」である。人々は喜びより、ホットしたというのが実感ではなかったかと思われる。前年まで四、五年間「不作」、「下作」、「凶作」続きであったからだ。

元禄八年 乙亥(キノトイ・・・1695年の記録)  
 崑腟会爾砲得沈篥追垰通祇」=「青絶」というのは、「植物の成長が止まり、花も実もつかないことである。」 「田は残らず無成り」は「水田の収穫はなし」ということである。人々の打ちひしがれた姿と絶望感と溜息を思うと胸がいっぱいになる。

「内史略」(横川良助著・南部藩史の重要資料)には「同年夏中冷気勝ちにて 綿入着用 六月九日土用入 晦日より以之外冷気 土用中雨降続北風強吹・・・(中略)」とある。明らかに冷害である。「米高値につき 盛岡町にて下々の為御救い 相場一升に付き 六文下がり(中略)」(「内史略」より)米の値段が高く、盛岡では住民が困窮しているので、これを救うため米一升あたり六文の補助がなされた」とある。

¬邯五右エ門という卯根倉山の山師が、秋田の仙北から種籾を買ってきて、御代官様に裏書きの証文で貸した。 お代官様も生活苦にあえいでいたということである。

3驃(かばさわ)の岩ノ目山は、湯田村田中の水源保護林となつた。
じ翅經韻蓮畑中久左エ門、志田権左エ門、長内治兵衛の三人であった。

元禄九年 丙子(ヒノエネ・・・1695年の記録)  
 崟沈筺田無に成る」前年に引き続き、作物は育たず米の収穫はゼロの年であった。食糧は、ないのだから、黙っていれば飢え死にする他はない。村人は何をしたか。

◆屬海稜、十五、六歳より三十五、六歳までの男女は仙台藩に行き身を売った」とある。「身を売った」というのは、身代金をもらつて、約束の期間、勤め奉公をするということである。「身代金」は仕事の内容、個人の能力によって違うわけで、労働条件は必ずしもよいわけではなかったと思われる。しかし、食事は確実にいただくことができたのだから、沢内よりははるかに良かったに違いない。

どんな仕事をしたかと言えば、古老の言い伝えでは「田起こし」(春耕)「籾摺り」「米搗き」(精米)「開拓」「用水路工事」等で、手の器用な女の人は縫い物もしたそうである。

「身売り」した人の中には、婿養子や嫁として迎えられたり、分家としてその地に住み着いた人もおられたということである。

今から10年ほど前、宮城県桃生郡矢本町(石巻市の近く)の旧家大原家を訪問したことがある。この地には、明治の初め沢内から出稼ぎに行った人たちが多かった。ご主人にお聞きしたところ、この町には、先祖が沢内から来られたという人が、何人かおられるということであった。

それでも「飢えに及ぶ者数人」とある。仙台藩に行けなかった人たちの何人かは、飢え死にしたということである。

ぁ嵌三分」とも記されている。畑で栽培される「大豆」「小豆」「稗」「粟」などの雑穀は例年の三分の一しか収穫できなかったということである。

ァ嵎討涼傭覆蝋沢尻(北上市)で、一升(1.5kg)七十三文であった」1文は現在のお金に換算すると約50円(「武士の家計簿」磯田道史著による)である。米1.5kgの値は、3.650円であったことになる。 「飢えに及ぶ者数人」どころではなかったに違いない。

Ω翅經院∪亠偽盻、松田清助。
Г海稜、「白木ノ山より両頭(頭が二つ)の蛇が出た」とある。(「白木野本」)

元禄十年 丁丑(ヒノトウシ・・・1697年の記録)   
 崙鷏遽射り=二月が2度あった。」
◆峪扱邂貽、日蝕。九月十五日、月蝕。」

「世の中、半作で納まる」作物(米)の収穫は平年の半分しかなかったけれど、落ち着いた年であった。前年の飢饉騒動に比べれば、まずは安定した年だと言えるという記録と解した。

元禄十一年 戊寅(ツチノエトラ・・・1698年の記録)  
 崚槌半作」
◆峺翅經院浦上十太夫、村瀬藤右エ門

元禄十二年 己卯(ツチノトウ1699年の記録)
 峩Ш遏廖疂禿の作物のできは、たいへん悪く、収穫はゼロに近い。
◆嵌月十五日、大風」 「大風」はどの程度の風なのか記述はない。「台風」ではなかったかと思われる。

元禄十三年 庚辰(カノエタツ・・・1700年の記録) 
 崚槌 中作」 農作物のできは、「凶作」よりは良いが、例年の半分であった(巣郷本・白木野本)。  ただし「下巾本」の記録には「上作」とある。作柄は場所によって違うこともあるということか。
◆崟儀扈集淨 月蝕。  七月十五日 日蝕があった」(下巾本)

8翅經院浦上十太夫、村瀬藤右エ門
ぁ崛隶翅本」の記録始まる。

「二月一日に御代官がお出でになり、ニクミ山を検分され、清水森山まで登られた。次いで桧沢、阿く戸沢の二つの山を検分されて帰られた。湯川温泉に行かれた。この時の御代官は沖弥一右エ門様であった。

この検分があってから「桧沢」「阿く戸沢」の二つの山は、許可無く入れない「御留山」になった。五月にこれを知らせる高札が立てられた。
 
元禄十四年 辛巳(カノトミ・・・1701年の記録)
 崑腟会爾砲禿通気叛る。畑は二分から三分のできであつた」 米は収穫なし、畑の穀物も平年の二割か三割しか収穫できなかつた。
御代官 沖弥一右エ門 西野與助

8涎扈銃 御代官沖弥一右エ門、西野與助様が帰り(盛岡へ)にあたり「水沢銅山」を検分され、「阿く戸沢」の御留山も検分されてお帰りになった。

この時、山守(山の見回り役)の七右エ門が酒に酔い、御代官に失礼な言動をした。そのため山守役は代えられ、利助、長七、二郎助、与吉の四人になつた。

ざ綏遒砲蝋盪イ立てられた。「この桧沢山は御留山に仰せつけられている期間、南はイナ倉峠まで、西は大川まで、東はウサギ森まで、北は藤倉まで、みだりに入り込み、何の木であっても一切伐りとってはならない。」

ジ杵十住闇の九月の高札には「阿く戸沢山、東は清水ケ森山、西は鷹桧森(たかひばもり)まで南はネグトリ沢まで、北はヒラバ沢まで御留山とすることを申し付ける。みだりに入り込み、諸々の木を伐り採ってはならない」という内容であった。

山川の自然の恵みを頼り、支えに生きてきたこの地の人々には、「留山」の区域はかなり広く大きな制約を課し、負担を強いるものであったに違いない。

元禄十五年 壬午(ミズノエウマ・・・1702年の記録)
 崋祁邂貽 日蝕。八月閏有り」
御代官 沖源太夫 渡部斎宮

9掌佑任論嵎耋音了予充型佑療討ちがあった(この記録があるのは、下巾本のみである)
せ遊酘鷭充憩 湯田村の畑の沢は出入り禁止の「御留山」となつた。そればかりではなく沢内の全ての「御留山」はこの時に定められた。

ソ衆豬扈衆貽 月蝕があった。
β膓Ш遒琶討亮穫無し。特に塩が不足して値段も高く、お上様(代官か)にお願いし、塩を拝借した。15ケ年の年賦で返すことになった。

元禄十六年 癸未(ミズノトヒツジ・・・1703年の記録)
―衆豬扈集淨 日蝕。 畑作八分。田は大凶作。
⊇田の仙北で、米の値段は一升(1.5kg)六十五文(3.520円)であった。米を買える人は何人いたでしょうか。「喰えるものは何でも喰えなければ生きられないもんだ」という古老の話が、よく分かった。
 
5欧┐觴圓録多くいた。「草井沢本」には、「この年、多くが飢え死にした」とある。
じ翅經院‐照佐太夫 下斗米平四郎。

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