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鎖国から開国、独立へ 平井修一
産業革命による近代化のツナミが極東の桃源郷のような小さな島国に押し寄せてきた。

徳川幕府の鎖国政策は元和2(1616)年、シナ(明)以外の船の入港を長崎・平戸に限定することから始まり、寛永12(1635)年にシナ・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、日本人の渡航と帰国を禁じたことでほぼ完成した。

以来230余年、シナ、オランダ、朝鮮、琉球、蝦夷以外との交易、交流は禁止され、貿易の利と海外情報は幕府が独占する。がんじがらめの管理貿易体制であり、徳川幕府独裁体制を支えた。

これに風穴を開けたのがアメリカの“砲艦外交”で、嘉永6(1853)年ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し開国を要求する。安政5(1858)年には初代駐日公使タウンゼント・ハリスと交渉し、日米修好通商条約を締結し、鎖国が終わった。

ハリスはその前年10月に13代将軍の徳川家定に謁見するため下田を出発して江戸へ向かうが、その行列を見ようと人々が押し寄せる。横浜を過ぎた神奈川あたりの様子についてハリスは概要、こう日記に記している。

<見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものなのだろう。

私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか(理由になるか)どうか、疑わしくなる。

私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる>(大仏次郎「天皇の世紀」より孫引き)

開国への疑問をふと感じるものの、ハリスはタフなネゴシエーターとして職務を遂行する。幕府の高官にこう説得するのだった。

<私は、スチーム(蒸気)の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な国家となるであろう>

長崎海軍伝習所のオランダ人教官、ホイセン・ファン・カッテンディーケは1857〜1859年の2年間、勝海舟らを教育したが、帰国後にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任した。その回想録でこう語っている。

<私が今日まで見たところでは、日本はまさに天国のごとき国であり、幕府が外国人の入国を禁じているのも確かに道理がある。もし英国使節のエルギン卿が日本内地を見るならば、彼は英国政府に「日本を領有せずには済まされない」と報告するに違いなかろう。

英国がシナで手一杯であるこそ幸せであるが、おそらく日本にも、そのうち悲しみの順番が回り来るだろう>これを国難といわずに何と言おう。

時代が鎖国を許さなくなってきた。世界は帝国主義、覇権争奪戦、植民地化の時代であり、日本も開国して富国強兵を進めなければシナのように列強の餌食にされてしまう。国民の危機意識は沸点に達した。

外圧は内圧と呼応して歴史の歯車を大きく動かす。幕府は上からの「官製開国」を狙い、薩長土肥は下級武士の尊皇攘夷のエネルギーをレバレッジ(てこ)とした「倒幕開国」を図り、「玉」を擁して幕府に大政奉還させた。「倒幕開国」派が勝った。

版籍奉還、廃藩置県で封建制は終わり、中央集権国家が誕生したが、大名以下の武士の特権はほとんど召し上げられてしまったのだから、文明開化を呪う人も随分多かったろう。不平士族は西郷先生が成仏させた。

誕生を祝うべき新生日本は天皇を頂点とする「独立国家」のようであったが、外患は続く。実は各国との条約上、治外法権と関税自主権の放棄から日本は事実上の「植民地」であった。

外交への無知から、海千山千の列強にいいようにだまされたのである。ヘレン・ミアーズが「アメリカの鏡・日本」にこう書いている。

<(ロシアの南下は日本ともども)イギリスもまた面白くなかった。彼らはよその国が極東で支配的地位を占めることを望まなかった。

日本も韓国も、中国との関係において、戦略的に「懸け橋、ないし防御壁」の役割を果たす位置にあったが、半植民地の日本では、いかなる力の均衡ゲームにも役立たない。かといって、相争う列強が満足いく形で分割するには、日本は小さすぎた。

日本政府は不平等条約によってすべての大国に縛り付けられていたから、一国に与えられる特権は自動的に他の国にも与えられる。日本がこの制約から抜け出さない限り、ひとつの大国とだけ条約を結ぶことはできなかった。そこでイギリスは日本に「独立」を急がせた。

日本が独立のための勉強をしたいという意志をみせるや、イギリスはすぐに指導計画を立てた。ロシアに対抗するため、1893年の青木・キンバリー条約で始まる日英同盟は、1921年にアメリカの圧力で解消されるまで、イギリスの極東政策の基盤となった。日本を小「大国」として台頭させた大きな力はこの同盟だった>

日英同盟をバックボーンにして日清(1894年)、日露(1905年)の戦争で勝利した日本は小「大国」として世界へデビューし、国際的地位を高める。しかし、不平等条約を改正したのは1911年、明治維新から44年後であった。外交を誤ったために半世紀も日本は「半植民地」の「半独立国家」だったのだ。

外交というのは「外国交際」のことで、条約やら協定などは国と国との約束である。政権が変わろうが、基本的に継承され、ルールに則って一方が破棄、あるいは双方が合意しない限りはオシマイにはならない。アメリカが敵性国家のキューバにグアンタナモ基地をもっているのも、カストロの前の政権との条約による。

外交の基軸である条約、協定、合意を担保しているのは国際信義や、最終的には軍事力で、このルールを守るのが一等国である。「“戦”の一字を忘れるな」「外交は血を流さない戦争、戦争は血を流す外交」と西郷先生と毛沢東は言った。

その覚悟もなく、今日、口先で外交をもてあそぶ輩がニッポン丸の艦橋に立って、日本の外交の基盤であり、アジア・太平洋の安定を50年間担保・保障している日米同盟を危うくしようとしている。

歴史を知らない、現実を知りたくない、将来なんて知ったこっちゃないという容共・金満・蓄財サルが開国から150余年、独立から100年を経た日本を弄(もてあそ)んでいる。

戦後の65年で日本人が劣化したためで、それを正すためには最低でも65年はかかるかと考えると小生は120歳である。憮然として「キーボードを打つしかないか」と、蟷螂の斧の悲しみを悲しむ氷雨の夜である。

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| 平井修一 | 08:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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