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黒船来航の歴史解釈を大きく塗り替える 宮崎正弘
歴史教科書は「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった四隻で夜も眠れず」と教える。従来のペリー来航目的は「捕鯨中継地」説を覆えす衝撃の考察。米国の日本開国要求は太平洋の「海のハイウェイ」、シナへの中継港確保だった。

ペリー来航の『前夜』と『以後』に区別して、日本の歴史は画期された、ということになっている。歴史が回天するには前段階に長い長ぁ−いプロセスと、覆い隠された本当の動機があるものだ。

従来の歴史解釈の主流はアメリカの鯨油船の中継地として、貯薪(石炭)場確保のために、どうしても日本の開港が必要であり、米国はペリー艦隊を送り込んで江戸湾へ侵入させ砲台を無力化するほどの強大な武力で脅した。

徳川幕府はみたこともない巨艦とその火砲に震え、勅許なく条約に署名したため井伊大老は暗殺され、回天のうねりが本格化した。

本書(『日本開国』)はそうした従来の歴史解釈を大きく塗り替える。ペリー艦隊の本当の理由が、著者の執念と長い資料調査、とくにロックフェラー・アーカイブにおける探索と、隠れた人脈の調査によって明らかにされた。

じつはこの本を読み出して、ほかの作業をストップした。一晩で読んで、面白かったうえ有益だった。

考えてみればペリーは日本にやってくる前、先に中国に寄港し、下田で黒船四隻の示威行動のあと、『一年後に来る』と言い残して去った。何処へ? 上海へ行ったのである。

日米和親条約の締結から、じつに二年後に初代領事タウンゼント・ハリスが下田に赴任する。しかもハリスが孤軍奮闘したものの徳川幕府の遅延作戦にあい、日米通商条約が結ばれるのは、ペリー来航から数えると四年後である。

この空隙に、欧米列強は何をしていたのか?表の歴史と裏の真実とに落差があることはうすうす気づいている読者も多いことだろう。

アメリカは太平洋の『海のハイウェイ』構築が戦略的狙いで、鯨油中継は口実でしかなかった。日本の開国を戦略目標として、それを立案し、アメリカの政治を背後から動かした人々がいるに違いない。それもキー・パーソンはいったい誰か?

聞いたことのないロビィストが本書に登場する。

その名をアーロン・パーマーという。かれはロスチャイルドの代理人で、パナマ運河開墾工作にも従事し、NY―上海ルート開拓というロスチャイルドの野望とアメリカ外交の目的とが一致したときに猛然とワシントンを動かし、ペリー艦隊の日本派遣を実現させた、裏のフィクサーだった。

そしてもうひとりオーガスト・ベルモント。おなじくロスチャイルドの代理人。フリーメーソンの会員でもあり、ロスチャイルドというアメリカ政治を裏で動かす人々の利益を代弁した。

NY―上海が二十五日間で結ばれるとアメリカが裨益するのは阿片貿易による膨大な収益と中国からの労働力輸入の円滑化である。

もうひとつ大事なことは、このルート開拓を米国は英国と競ったという事実である。ハワイはタッチの差で英国より先に米国が権益を抑えた。

中国は、アメリカへ安価な労働力を提供する巨大策源地であり、阿片では世界最大のバイヤーであり、その闇の商いはルーズベルト大統領夫人に繋がる富豪ルートとも闇の繋がりがあった。これらの一部は周知の事実だろう。

ましてやペリーが来航した1854年が鯨油ビジネスのピーク、その後は鯨油の消費が劇的に落ち込みを始める。

鯨油ビジネス背後説は、説得力をもたなくなる。ペリーはしかも、下田へ来航する前に那覇と小笠原に寄港して、貯薪場の迂回ルートも確保していた。
 
著者の渡邊氏は下田生まれ、ハリスが最初に領事館を置いた玉泉寺は氏の散歩コースでもある。

ハリスは日米和親条約が結ばれてから、二年もあとになってから下田へ赴任し、さらに一年を下田で荏苒と待機を余儀なくされ、ようやく江戸へでむき将軍との面接が許される。1853年ペリー来航から、四年後である。

この「空白」の謎を解いていくには、何が端緒となったのだろう?

日米和親条約第十一条には「締結後十八ヶ月後に『どちらかの政府』の要請があれば、領事を下田に開設できる」となっている。つまり英語条文は「どちらも」(either)「どちらか」の両解釈が成り立ち、「どちらか一方」と認識した米国は、その条約解釈に従って、一方的にハリスを送り込んできた。

それにしても歴史の新説を打ち立てるには、それなりの証拠集めが必要。本書はそれらを裏付ける資料をほぼ満たしている。

一番苦労したポイントは何か? 評者(宮崎)が著者に直接聞いたところ、「アーロン・パーマーとオーガスト・ベルモントの出会いを扱ったロスチャイルドアーカイブスの論文」が決め手となった由で、「この論文に出会った時に全てが氷解した感覚を覚えました。二人がロスチャイルドのエージェントであることと、ベルモントとペリーの縁戚関係が明らかになった時点から「だれそれとだれそれは会っているはず」、「だれそれはこんな主張をしているはず」、「こんな事件があったはず」といった歴史推理が始まり、ほぼ全ての推理が正しいらしいことを示す資料が続々と」と発見されたのだという。

渡邊氏は資料の渉猟に一年を掛けて、この野心的な力作をものにされた。

しかも叙述に際して、用いられた手法は絵画の「点描法」。著者がシカゴ美術館でみたジョルジュ・スーラ(後期印象派)の「グランド・ジャット島の日曜日の午後」。

その所為か、本書では主題に移るまでの前史の叙述が松平定信、阿部正弘、水戸光圀、頼山陽などと話題があちこちに飛び散り、逸話の集大成かと思われるのが半分をしめ、しかしこれらの逸話前史がバラバラの氷塊であるとすれば、隠されてきた米国の意図が、氷塊が熱湯のなかで瞬時に溶けるように一枚の巨大なキャンパスのなかに収斂されていくのである。(渡邊惣樹『日本開国』草思社)

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| 宮崎正弘 | 16:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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