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「太平記」よりは「梅松論」 古沢襄
姓氏家系の研究では第一人者である丹羽基二さんの著書に「日本の苗字事典」がある。(一九九四年 柏書房)。これが平易な文章で読みやすく、実に面白い。普通の事典とは違って、苗字にまつまる歴史や意味を分かりやすく書いてある。

日本には二七万余の苗字があるという。その中で代表的な苗字、珍しい苗字、歴史的に重要な姓氏など約七〇〇〇苗字について解説してある。この二七万余の苗字のほとんど、約八割以上が地名からきているという。したがって自分の苗字のルーツを辿るには、その地名を探すのがひとつの方法になる。

だが明治以降、町村合併が重ねられて昔の「小字(こあざ)」の地名が廃れているから、地名からルーツを探る手法も限られてきた。家に伝わる古文書もひとつの手がかりになるが、核家族化で古文書を持つ家もほぼ皆無に近い。墓に刻まれた家紋も重要な手がかりになるのだが、若い家庭では家紋の存在すら知らない者がほとんどであろう。

日本の歴史を知ることは、教科書の丸暗記では身につかない。自分の家族や地域に親しみを覚えて、そこから過去を辿ることが必要である。一時は小さな市町村でも教育委員会が中心になって市町村史を発刊することが流行った。地方大学の歴史学研究室や地域の地方史家が協力して優れた市町村史が発刊されている。

地方の時代といわれながら、このような文化事業は衰退している。それはさておき、丹羽さんの「日本の苗字事典」の中で赤松姓について記載があった。私が岩手県の古沢氏のルーツを求めて、茨城県八千代町にある赤松山不動院に辿りついた十数年前のことになる。

そこに開祖の赤松祐弁の出自を播州・赤松氏と刻んだ「祐弁墓碑銘」があったが、本宗の赤松菩提所の回りに岩手の古沢氏と同じ「蔦家紋」の墓があちこちにあった。一介の東北農民に過ぎない岩手の古沢氏が、江戸時代から家紋を持ち、「屋号」のついた苗字を持って、帯刀まで許されていた謎は、赤松山不動院で解けたことになる。

赤松宗家は「九曜」の家紋を用いた。八千代町の「歴史民俗資料館」に展示されている兜には、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋が、兜の額部分についている。「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の運行をつかさどる神とされた。戦(いくさ)神である。

「蔦家紋」の墓は古沢姓もあれば赤松姓もあった。それが赤松宗家の「九曜家紋」の墓所を囲む様に散在していた。赤松宗家の分家筋のものであろう。分家筋からは佐竹義宣に従って秋田の能代城まで行った古沢助蒸(佐竹文書)がいる。能代城は徳川幕府の「一国一城令」によって棄却され、助蒸は録を失って農民となって土着している。その末裔が南部領雫石邑に流れて、隣村の沢内邑に土着したことになる。

丹羽さんの「日本の苗字事典」に戻る。赤松姓について「赤松氏は、播磨国(兵庫県)赤穂郡赤松が発祥の地で、村上天皇を祖?とするという名族である。太平記にも赤松円心(則村)は弓矢をとって無双の勇士とある。赤松満祐のとき、足利将軍・義教を殺した。ために諸将に攻められ、一族は四散した」とある。

四散した赤松一族の一人が赤松祐弁だったのであろうか。赤松山不動院にある「不動院縁起」には祐弁の曾祖父は赤松則村(円心)とある。だが、これを裏付ける資料はない。

そこで播磨国の赤松氏について調べてみる。「梅松論」「室町軍記 赤松盛衰記」高坂好氏の「赤松円心・満祐」が格好の書である。「梅松論」は「太平記」と比較されるが、南北朝時代を、もっぱら足利方、武家方からとらえたために、足利尊氏が逆賊視された戦前には排斥された。しかし戦前でも「梅松論」の史料としての正確性には定評があった。

戦後は南北朝時代の政治力学を明かす第一等史料として「太平記」よりも学問的な評価が高い。「室町軍記 赤松盛衰記」は数多くある「赤松記」の中から重要な諸本をまとめたもので1995年に発刊されたが、赤松満祐が足利将軍・義教を暗殺した「嘉吉の乱」が詳しい。

「応仁の乱」が下克上で有名だが、すでに「嘉吉の乱」で大規模な下克上が起こり、室町幕府が急速に衰退過程に入ったといえる。

だが私にとっての愛読書は、高坂好氏の「赤松円心・満祐」となった。1970年に吉川弘文館から出たこの書は貴重本となった。1970年5月12日付けの朝日新聞に「愛に支えられ歴史書出版」の記事が出ている。東大史料編纂所から高い評価を受けた高坂氏の研究書は12年の歳月をかけて赤松一族の興亡史を綴ったが、途中で肺腫瘍を患って病床で妻のあいさんが口述筆記をしながら完結した。

作家の新田次郎氏が赤松村を訪れたことがある。山また山の山間の僻地で、川原に僅かな耕地があるだけだった。その昔、村人は山野を駆け巡って獣を射止め、それを平地に持って行ってカネや米に換えていた。

典型的な山岳の民なのだが、ここから興った武士団が大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の令旨を奉じて、赤松円心を大将にした一千余騎で五千余騎の北条・六波羅に攻め入った。新田氏はこの山岳の民に建武中興という歴史を動かすエネルギーが潜んでいたことに感嘆している。

だが、赤松円心の武勲に対する恩賞は播磨守護職という低いものであった。高坂好氏は建武の新政で大塔宮護良親王と足利高氏(尊氏)の対立があったと指摘している。護良親王に近い赤松円心は疎外されたことになる。さらに後醍醐天皇と護良親王は不仲となり、皇位簒奪の濡れ衣を着せられた護良親王は鎌倉に幽閉されて、足利直義の命を受けた者に殺害された。

歴史の歯車はさらに回転する。後醍醐天皇の建武の新政は王政復古を目指す公家衆や新田義貞など天皇方の武将が、足利尊氏と対立して戦いとなり、尊氏軍は敗北した。西走する尊氏に赤松円心が会ったことが「梅松論」に出ている。

円心は尊氏に西国に落ち延びて、軍勢を休養させて十分に戦備を整えて上洛することを説いている。さらには朝敵の汚名をかぶらないために持明院統の院宣を受けるという提案をした。この尊氏・円心の会談こそが南北朝対立の嚆矢となったと「梅松論」は記している。
          
日本の中世史上、室町時代が大陸文化を吸収して華麗な花が開いた時代だと思っている。奈良・平安の王朝文化と江戸の町民文化の狭間にあって、しかも朝敵・逆賊の足利政権ということから、戦前の歴史学徒から敬遠された室町時代だが、戦後はタブーから解き放たれて、研究がさかんになった。「太平記」よりは「梅松論」というのが私の見方である。

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