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自民の痛手となった中川昭一氏の死去 花岡信昭

自民党の中川昭一氏の急死はショッキングなニュースだった。56歳というのはいくらなんでも早すぎる。保守のホープとして将来の首相候補の1人でもあっただけに、再生を目指す自民党にとってなんとも痛手となった。

中川氏急死の報を受けて、真っ先に浮かんだのが、父・一郎氏の自殺だった。1983年だから、もう26年も前のことだったのかと改めて思い出した。

一郎氏は当初、病死として伝えられた。ホテルのバスルームでの死去だったので、一報当時からなにか違和感はあった。数日後だったか、深夜、筆者が勤務していた産経新聞の政治部に電話が入った。自民党の大物議員である。すでに故人であり、もう時効だろうと判断して書く。

「中川は自殺だ。さっき、内輪の会合でつい、しゃべってしまった。帰ってからメンバーの中にNHKの関係者がいたことを思い出した。オレは産経のファンだから、お宅にだけは伝えておくよ」

そんな内容だったように記憶している。筆者はたまたま、まだ居残っていた。すでに午前零時を回っている。こんな時間にいったいどう確認を取ったらいいか。社会部で警視庁詰めをした経験もあるから、こういうときは警察のトップに直接聞いてしまえと北海道警の本部長に電話を入れた。

否定されるだろうなと思ってかけたのが、意外にも、すんなりと認めてくれた。当時の状況もきちんと話してくれる。興奮気味に質問を浴びせる筆者に対して、落ち着いた口調ですべてしゃべってくれたことを思い出す。あとになって、おそらくは「メディアから当たりがあれば認めよう」という了解が関係者と警察の間で出来上がっていたのではないかと思い当たった。あるいは、その大物議員が北海道警にも手をまわしていたのかもしれない。

*父親の一郎氏同様、繊細な性格だった昭一氏
一郎氏は「北海のヒグマ」などと言われていたが、豪放磊落に見えて、実は繊細な人だった。ちょっときつい質問をすると、はにかんだような顔をしてぼそぼそと答える。こまかいことは忘れてしまったが、その少年のような笑顔だけは覚えている。

昭一氏急死の報道の中で、一郎氏の秘書をしていた鈴木宗男氏が「こういう別れた方をするなら、もっと話しておくことがいっぱいあった」と涙ぐんだという記事が胸をついた。鈴木氏は一郎氏の弔い選挙として出馬した昭一氏に対抗して立候補、「骨肉の争い」ともいわれた。

先の総選挙で鈴木氏は新党大地の代表として比例で当選、昭一氏は民主旋風の中で復活当選もならなかった。その大きな敗因となったのは、2月のローマでのG7(主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議)終了後の「もうろう会見」だったことは言うまでもない。

親子を取材してきた経験からすると、性格はよく似ていたように思える。昭一氏も豪放タイプのように見えて、いろいろなことを気にする神経のこまやかさを持っていた。

もう何年か前になるが、日台関係の団体が主催して政治家と民間の企業人らが台湾を訪問する計画があった。昭一氏はもちろん親台派だ。事前の打ち合わせ会が議員会館の会議室で行われ、昭一氏も出席した。当然、一緒に行ってくれるものと思っていたが、昭一氏の発言がどうもはっきりしない。そのうちに「別の会合があるので」と退室してしまった。

あわてて後を追いかけ、廊下を歩きながら「行けないんですか」「党内の事情をちょっと考えているんだ」といったやりとりをしたことを思い出す。親台派でありながら、その時期に自身が訪台することの影響をあれこれ慎重に斟酌しているのである。結局、昭一氏はこのときの訪台団には加わらなかった。繊細な人なのだなと改めて感じたものだ。

*単なる「骨肉の争い」で片付けられぬ、鈴木宗男氏との縁
「もうろう会見」は麻生政権の足を引っ張ることになる。日頃から酒好きで知られ、昼間でも酒臭いことがあったから、この会見も当初は「酩酊」と伝えられたが、実際には昼食のワインに口をつけた程度で、風邪薬の過剰投与が原因だったようだ。

ではあっても、麻生政権に取り返しのつかないダメージを与え、ひいては自民党の総選挙惨敗の流れをつくり出す一因となってしまったことへの心労は相当のものがあったに違いない。死因は心筋梗塞と発表されているが、一連の経緯が体力、気力を減殺させ、体をむしばんでいったのだろう。

政治家というのはすさまじいまでの「胆力」が必要なのだということを、痛烈に感じさせる。

鈴木宗男氏は毀誉褒貶激しい政治家だが、パーティーなどで初めて会って、その物腰の低さに驚いた人は少なくない。メディアで伝えられている人物像とまったく異なるのだ。筆者なども、国会の長い廊下で20メートルも先から「やあ」と手を挙げられて戸惑った経験がある。

冬の選挙では選挙カーの前を長靴で走る。雪をかきわけて一人一人に握手していくのだから、北海道にファンが多いのもうなずける。

中川一郎氏の秘書時代、鈴木氏にはある特技があった。一郎氏ぐらいの大物になると、一晩に2件も3件も会合をこなさなくてはならない。鈴木氏は秘書として随行する。次の会合に間に合わせるためには8時に出なくてはならないというとき、鈴木氏は7時半にまず一郎氏に声をかける。

「先生、次の会合のお時間です」。一郎氏は満座に聞こえるように「ばかやろう。こんなにみなさん、喜んでくださっているのに、なんだ。待たせておけばいいんだ」とどやしつける。鈴木氏は「すみません」と平身低頭する。

10分か15分して、鈴木氏がまた声をかける。「先生、そろそろ」「うるさい。何度も言わせるな」といったやりとりが3回ほど続いて、ようやく一郎氏が「秘書がうるさく言うんで、仕方ありません。お名残り惜しいですが、失礼させていただきます」と頭を下げる。これで、その会合の出席者は納得、満足する。

車に乗り込むや、一郎氏は鈴木氏に「いつもすまんな」とねぎらうのである。このエピソードには、一郎氏の隠された気遣いの気持ちと、鈴木氏の「秘書の鏡」的対応が浮かんで見える。

政治の世界は人間がやることだから、こういうことが意外なまでに重要な要素を占める。昭一氏の死去で鈴木氏が涙を流したというのは、そうしたさまざまなことが一挙に去来したためではないか。「二世対秘書の因縁の対決」などと書き立てるのがメディアの得意とするところだが、実態はもっと人間臭いのである。

*保守派復権に大きなダメージ
自民党再生のキーワードは「保守復権」ではないか、とこのコラムでも書いてきた。民主党政権がリベラル度を高めれば高めるほど、自民党にとって保守合同当時の原点を思い起こす必要があるように思える。

そうした点からすると、中川昭一氏の死去は、保守派にとっては痛恨事である。保守派の中心である平沼赳夫氏はまだ自民党に復党していないし、安倍晋三氏の「再登板」をただちに可能にする状況にはない。

総選挙惨敗後、保守派とされる落選議員たちと会う機会があったが、当選した自民党119人のうち、いわゆる「真正保守派」と見られる人はどう勘定しても15人から20人程度という。

国家観や歴史観を大切にしようとする保守派のリーダー的存在であっただけに、中川氏の死去は、いまの日本の「政治思想状況」にも多大な影響をもたらしかかねない。中川氏は「拉致議連」の会長でもあった。

論壇の世界でもそうだ。朝日の「論座」は休刊に追い込まれ、「諸君!」は保守度が低下したがゆえにこれまた読者離れを招いたとされ、「正論」「Will」「Voice」といった保守系論壇誌の独壇場といった状況が現出していたはずだ。

民主党の歴史的圧勝と保守系論壇の存在感とはかなりの乖離がある。このあたりをどう理解すべきなのか。中川氏の死去で、そんなところにまで思いが及んだのである。

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