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九十翁の「台湾の青春」 平井修一
戦後、GHQの走狗となったNHKや朝日新聞など容共左派のマスコミは、三つ子の魂百までもで、未だに「戦前の日本=侵略者」、いわゆる自虐史観にしがみついている。

左巻きではNHKの師匠である朝日も「上手の手から水が漏れ」たのだろう、「甲子園球児=純真無垢」を強調したかったのだろうか、「人・脈・記」(070703)でぽろっと「台湾の真実」を書いてしまった。

<甲子園アルバム 台湾の青春「球は霊なり」

台湾のチームが甲子園で準優勝したことがある。1931年、満州事変がおきた年に海を船でこえてきた嘉義農林である。その中堅手だった蘇正生はいま94歳。台湾・高雄の介護施設に訪ねると、ユニホーム姿で車いすに乗ってあらわれた。 

「はじめて甲子園運に入ったら、みな草色。ランニングしたら広かった。グラウンドは砂のごとく平ら。台湾は石ころがゴロゴロ。もういっぺん、行ってみたい」

とつとつと日本語をつむぐ。涙があふれ、鼻水がたれる。それでも話しつづける。蘇にとって甲子園こそ青春そのものなのだ。  

台湾は日清戦争で日本に割譲された。野球は日本人といっしょにやってきた。嘉義農林の監督になったのは近藤兵太郎。愛媛の松山商で監督をしていた人だ。「球は霊なり」と蘇らを鍛えあげた。

「近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた、差別、ひとつもありませんでした」

レギュラ−9人のうち3人は日本人、蘇ら2人は「本島人」と呼ばれ、4人は先住民族「高砂族」だった。甲子園のグラウンドをはだしで駆ける者もいた。

決勝で中京商に4一10で敗れる。作家菊池寛は観戦記に書いた。「日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」

日本敗戦後、台湾は中華民国のものとなる。大陸からきた国民党軍による反対派弾圧事件で2万ともいわれる死者が出た。蘇のチームメートだった陳耕元らは混乱をさけて田舎に帰り、先住民のために学校をつくって野球を教えた。

そのすそのから育ったのが中日ドラゴンズの投手になる郭源治(50)だ。農家に生まれ、7人兄弟の3番目。先住民族の一家は貧しく、野草を煮て食べた。男の子たちの楽しみは野球だ。

「うちのおやじは日本語ペラペラ。日本が好きでした。逆に僕が教育されたころは、戦争のことなどがあって日本のことが嫌いというところはあったんです」>

蘇正生や郭源治の父親は日本の統治が台湾のためであったことに感謝と郷愁を覚えている。この事実をまるで逆に描いたNHK「JAPANデビュー」は犯罪的である。

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| 平井修一 | 16:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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