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鮭の川上り 古沢襄
ことしも古澤元・真喜夫婦作家の文学碑忌がめぐってくる。岩手県西和賀副町長の高橋定信氏から案内を頂いた。

6月5日(金)9:00〜12:30まで
 古澤元.真喜夫妻文学祭 場所 玉泉寺
 記念講演 「古澤元」講師高橋繁町長
 講演会後 昼食

高橋繁町長は作家・高橋克彦氏の叔父に当たる。文学町長だから郷土史にも造詣が深い。古澤元の作品については、息子の私より詳しい。次女の知子と一緒に高橋講師の記念講演を拝聴するつもりだ。

平成十年五月の文学碑除幕式からすでに十一年の歳月が去った。参列した漫画家・杉浦幸雄氏、新劇俳優の森幹太氏、生命尊重の深沢晟雄沢内村長の女房役だった佐々木吉男氏もこの世にない。

この除幕式に先立って岩手日報の文学誌「北の文学」に一文を書いた。題して「鮭の川上」。鮭は産卵場所を求めて川を溯り、産卵を終えて死に絶える。多くの方から賛助金を頂いて、この一文を書いた時には三百万円だったが、最後には六百万円を超えた。

あらためて拠出された方々にお礼を申し上げ、「鮭の川上り」を再掲しようと思う。

◆古澤元が三十九歳でシベリアの地で果てて半世紀の歳月が去った。妻真喜とともに昭和のプロレタリア文学勃興期を生きた夫婦作家の文学碑が、古澤元の故郷である岩手県・沢内村の菩提寺・玉泉寺の文学散歩路に建立された。村内外の有志から拠出された浄財は三百万円を超し、元の「杜父魚」と真喜の「碧き湖」の詩文を刻んだ文学碑が平成九年一一月に多くの人達の協力で完成した。

◆鮭は産卵場所を求めて川を溯り、産卵を終えて死に絶えるという。夫婦作家の魂魄も心の故郷を求めて川を溯り、沢内の地で安らかな永遠の眠りにつくのであろう。雪解けを待って、平成一〇年五月には杉木立に囲まれた玉泉寺の境内で追悼の除幕式が関係者によって行われる。人の肉体は他郷に葬られても、魂魄は先祖の神々が眠る故郷に戻るものと信じたい。

◆古澤家は一七〇〇年ごろ雫石から沢内に移村した三百年の歴史を刻む本百姓の家系である。初代古澤屋善兵衛から数えて私まで十代、タテの歴史とともにヨコの歴史も広がり、岩手県内外で活躍した人材は作家、学者、漫画家、ジャーナリスト、弁護士、医者など多彩である。古澤元(本名玉次郎)はこの家系から一九〇七年一二月一一日、沢内村新町の旧家の次男として生まれた。幼少時代を沢内村で送った古澤元は、一九二一年に旧制盛岡中学(現在の盛岡一高)に入学、一九二七年に旧制第二高等学校(現在の東北大学)に学んだ。

◆二高では非合法政治活動に身を投じ、学業半ばで放校となったが、すでに盛中時代から文学に一生を捧げる志を固めていた古澤元は、上京して折から新風を巻き起こしたプロレタリア文学活動に加わり、『戦旗』編集部で秦巳三雄(はた・みさお)のペンネームで評論、翻訳などを発表した。

◆その後、古澤元は一九三三年『日暦』、一九三六年『人民文庫』、一九四〇年『麦』、一九四二年『正統』の同人として、精力的に創作、評論、エッセイを発表した。しかし太平洋戦争末期の一九四五年に三十八歳で召集され、満州に渡って国境を越えて南下してきたソ連軍と交戦、終戦によってシベリアに抑留された。高齢兵士だったために苛酷な労役に耐えられず、翌一九四六年五月三日に栄養失調でバイカル湖のほとりの病院で没した。古澤元の作家活動はあまりにも短かく、いくつかの力作を残しながら、熟成した作品を残すまでに至らなかったが、その評論・エッセイは作家高見順が『昭和文学盛衰史』で評価したように鋭い作品を残した。

◆私の心を強く打ったのは、文芸誌『正統』第一号の「文学理念の探求」のなかにある次の一文である。

◆竹槍という言葉に象徴される封建性に対し、自分たちは警戒を要する。気魄・精神力は強調して強調しすぎることはないが、われわれは現実に近代文明以前に生きているのではない。歴史の歩み、築きあげた近代の物質文明の蓄積を観念的に無視することは、無意味、無力な精神至上論に陥る一歩であり、ドン・キホーテにまさる悲劇を招く危険がある。

◆太平洋戦争の緒戦で南進する日本軍がマニラを占領、シンガポールを攻略し、連戦連勝の勢いに乗っていたあの時期に早くも軍部の精神至上主義からくる破局を予言した昭和一七年二月の評論である。

◆戦後は誰もが民主化の波に乗って軍部の精神至上主義を批判したが、言論統制の厳しい戦時下のあの時代には、多くの知識人が沈黙を余儀なくされただけに真っ正面から軍部批判を繰り広げたこの一文は困難な時代における“文学者の勇気”を示すものとして光芒を放っている。

◆プロレタリア文学運動は小林多喜二の虐殺という悲劇を頂点にして多くの転向文学者を生み、古澤元も転向したが晩年は日本古典文学に回帰し活路を見いだそうとした。この点では昭和初期のプロレタリア文学運動と並んで二大潮流を成した日本浪曼主義文学運動の担い手だった保田与重郎や亀井勝一郎の日本古典文学への回帰と軌を一つにした。

◆古澤元は日本古典文学の最高峰として日本の神々を高らかに歌い上げた『古事記』を推した。『古事記』は戦時下の皇国史観に利用されたこともあって、戦後久しく顧みられなかったが、最近になって芥川賞受賞作家の田辺聖子が、その著作『古事記』で玄妙な魅力で人々の心の夢をゆすぶる、すべての日本文学の“出できはじめの祖(ルビおや)”と高く評価したように半世紀の歳月を経て再び脚光を浴びようとしている。

◆ギリシャの神々を高らかに歌い上げた『ギリシャ神話』に少しもひけをとらない古典文学を私たちは伝承文化として持っていることを再認識すべきであろう。

◆北の山伏峠の難路を越え、南北二八キロの沢内村に下り立つと標高一四四〇メートルの和賀岳連峰をはじめとする奥羽山脈に抱かれたこの村は、まさに日本の神々が住む秘境の面影を残している。この地で生まれ、盛岡、仙台で学んで東京で激動期の文学活動に身を燃やした古澤元は終生変わらず沢内の故郷に思いを残している。

◆その作品の多くは故郷沢内を題材にした。

◆初期の「馬を売る日」を三度にわたって改作し発表した故郷に対する思い入れや代表作「びしゃもんだて夜話」、佳作の「少年」「続少年」の背景はいずれも沢内村となった。その情景描写では沢内の山や川、森や田畑、そこに住む村人、空を飛ぶ夜鷹や蝙蝠、川にひそむ杜父魚、雪解けの田に姿を見せた泥鰌に至るまで、生きとし生けるものに深い情愛を隠さなかった。そこには命あるものへの敬虔とも言える創作態度が見られる。

◆沢内の山や川に宿る神々とそこに生きる生命に魅かれた古澤元が、プロレタリア作家から日本の古典文学『古事記』に回帰していく道程は素直に理解できる。

◆その沢内の地に古澤元・真喜夫婦作家が魂魄のやすらぎの場所を得て永遠の眠りにつくことが出来たことを心から喜びたい。(岩手日報・「北の文学」)
 
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