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日米安保を信じない 渡部亮次郎
北朝鮮がわが国を核攻撃した時に、アメリカガすかさず核で反撃すると信ずる日本国民は日を追って少なくなっている。だが、これを承けて例えば小澤一郎が何か方策をめぐらしていると信ずる日本人は居ないだろう。

日米安保条約制定を振返ってみる。正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」といい、1951 (昭和26) 年9月8日、(日本独立を容認する)サンフランシスコ講和条約とともに日米間で調印され、日本の国会批准を経、翌52年4月28日に同講和条約と一緒に発効した。

これに先立つ日本の第12臨時国会(1951年10月10〜11月30日)では吉田首相が単独で調印した日米安保条約の批准が講和(平和)条約よりも重要案件となった。当時、野党にいた中曽根康弘が述べた如く「平和条約は安保条約に隠れ、安保条約は行政協定に隠れて」いたからである。

<民主党(当時)では、10月25日の衆院特別委員会における三木武夫幹事長の質問に対し、吉田首相の答弁が誠意を欠くと言う事でかなり硬化していた。

この日の民主党総務会は、秘密会であったため、筆者らは隣の部屋のロッカーによじのぼって聞き耳を立てていた。

この時「このような屈辱的条約に、我々は責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で、日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれは、アメリカに賠償を要求すべきだ」と叫んだ中曽根康弘氏の声は、今なお筆者の耳にこびりついている。

(渡部註:勇ましかった中曽根氏。だが反対票は投じなかった。「君が将来、首相になる時に傷になる」と三木に説得されたからである)

当時、両条約に対する、民主党の反対者は17名いるといわれていた。結局これに対し、三木武夫幹事長が1人ひとりを説得して、賛成に回らせたわけだが、北村徳太郎、小林信一、園田直、石田一松の4氏のみは、頑強に応じなかった。

(後年、園田氏は外相になった際、秘書官の渡部亮次郎に対し、「ハト派で反対したんじゃないよ、逆だよ。単独再軍備を縛るものだから反対すべきだと考えたのだよ」と述懐した)。

結局、北村氏は当日、他の会合に出かけるということで欠席、他の3氏は反対票を投じたが、三木幹事長は、本会議場から出てくる3氏に、その場で離党の届書を求めたそうである。稲葉修氏は、平和条約に賛成、安保条約に反対した。

園田氏は後年、アメリカに行った時、求められて演説したが、その中で「戦争中、航空士官としてアメリカ爆撃を念願していた私にとって、到底、賛成できなかった」と述べている。(園田氏は特攻隊員だった・渡部註)

離党した3氏のうち園田、石田氏は翌年、改進党結成に参加した形で復党しているが、小林氏はその後、社会党入りした。>宮崎吉政著「実録 政界二十五年」(読売新聞社)
宮崎 吉政(みやざき よしまさ、1915年8月8日―2006年3月3日)は日本の政治評論家。

早稲田大学卒業後、読売新聞論説委員などを経て政治評論家となる。その間、「実録政界二十五年」などを著した。2006年3月3日、心不全で死去。享年90。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その後60(昭和35)年1月19日に日米新安保条約が調印され、学生や左翼勢力の大反対の嵐をくぐって6月23日に同条約が成立して、日米相互協力および安全保障条約(正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」)となった。両者を含めて日米安全保障条約と総称される。

狭義には、日本の安全保障と極東の平和と安全のための日米両国間の軍事的協力関係をさだめたものであり、広義には全体としての日米間の協力をふくめたものである。

もともと日米安保条約構想は、日米間の講和条約の交渉過程において現実化したが、その考え方は早くから日本政府の上層部に存在した。

吉田茂首相をはじめとする日本政府の指導者たちは、講和条約調印後の日本の安全をいかにたもつかに懸念をいだいていたのである。日本政府の基本認識は以下の点にあった。

第一に、軍事力に関するかぎり米ソ二大国のそれが圧倒的に強いという現実認識である。さらに、米ソ両国がアジアおよび日本の将来について了解することがあり得ない以上、中立政策は現実的な選択ではなく、両国のいずれかと提携する以外には日本の安全を守る方法はないという判断があった。

第二に、吉田首相ら日本政府指導部は日本自身の再軍備については考えなかった。外的安全保障の方法をアメリカに依存することだけを考えていた。

あたかも1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争が勃発したことによって、アメリカは「共産主義陣営」に対抗するための「自由主義陣営」の軍事力強化の必要性を強く認識するようになった。

そこで同年6月アメリカ政府特使ダレスは、再軍備の要求をもって日本を訪問する。これに対して吉田首相は、「日本経済がまだ貧弱な状態にある」こと、「日本再軍備は近隣諸国を刺激する恐れがある」ことなどを理由に、ダレスの要求を断った。

そのかわりに吉田首相は、当分の間日本の対外的安全をアメリカとの提携によって、すなわち日米間に協定をむすび、日本国内に米軍を駐留させることによって確保することを提案したのである。

日米両国は吉田首相のそのような認識に沿って条約締結に合意し、その後細部の詰めを経て日米安保条約成立に至ったものなのだ。

ついで、日本有事の際の対処を定めた武力攻撃事態対処法が、2004年6月に制定された。周辺事態法が米軍の活動を支援し、自衛隊による武力行使はできないとされていたのに対し、日本有事の際は自衛隊による武力行使が中心となることとなった。

日本有事の際の日米安保条約にもとづく米軍の行動には、物品・施設の提供がなされ、武力攻撃事態対処法とともに制定された米軍行動円滑化法では、米軍に対し土地や家屋、物品や役務(兵員の輸送など)を提供することがさだめられた。周辺事態法では除外された弾薬などの提供もふくまれた。

こうして、周辺事態、日本有事両方の国内法の整備がおこなわれたことで、新ガイドラインにもとづく日米共同対処の枠組みがととのうことになった。

しかし、北朝鮮がわが国を核攻撃した時に、アメリカガすかさず核で反撃すると信ずる日本国民は日を追って少なくなっている。だが、これを承けて例えば小澤一郎が何か方策をめぐらしていると信ずる日本人は居ないだろう。参考:Microsoft(R) Encarta(R)

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