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佐竹北家と東北の小京都 古沢襄
畏友・渡部亮次郎さんから「佐竹敬久氏は佐竹北家の末裔」と教えて頂いた。ウイキペデイアの記事も添えてある。またブログの読者からも同様のご指摘を頂いている。

<佐竹敬久の生家は、秋田藩主の一門・佐竹北家である。家系は代々、秋田藩角館一帯に一万石の封を得て、明治時代は男爵に叙せられた旧華族の出身であった。父 敬二郎は昭和21年(1946年)5月に爵位を返上し、その翌年、太平洋戦争終戦の翌年11月3日に日本国憲法が制定されて間もない時期に敬久が生まれている。>

佐竹氏は昭和41年(1966年)3月、秋田県立角館高等学校卒業、東北大学工学部に進学している。七、八年前のことになるが、娘たちと一緒に角館の武家屋敷を見学に行ったことがある。東北の小京都ともいうべき華麗な文化が花咲いていたことが不思議であった。

常陸国の佐竹氏については調べもしたし、資料も持っているが、秋田に行った後の佐竹氏については断片的に知っているだけであった。これを機会に本腰を入れて、佐竹北家のことを調べてみるつもりでいる。

太田亮氏の「姓氏家系大辞典」には「その他、佐竹義雄(南殿 雄勝郡湯沢)、佐竹義尚(北殿 仙北郡角館)佐竹正一(西殿 比内大館)」とあるだけだ。詳しく知るためには角館の地方史研究家の教えを乞うしかないと思いつつも歳月が流れてしまった。

佐竹義尚は常陸の戦国大名である佐竹家の第17代当主・佐竹義昭の次男として生まれている。義昭は佐竹義宣の祖父に当たる。ということは義尚は義宣の大叔父ということか。いずれにしても佐竹氏の常陸国時代のことなのだろう。

その頃、那須氏で那須資胤と大関高増による内紛が起こると、高増は資胤を廃して義尚を那須資綱として擁立しようとした。これに義尚の長兄・佐竹義重も賛同して高増を支援した為、1567年には、佐竹氏の陣代として、宇都宮氏らの援軍を合わせた約6000騎を率いて那須領へ侵攻するも、那須勢の夜襲によって義尚自らも負傷する程の大敗を喫している。

翌1568年に資胤は子の那須資晴に家督を譲って隠居し、高増がその後見人になることを認めたため、この養子縁組の話は消滅し、後に佐竹義重と那須資晴は和睦した。

後に佐竹南家の当主・佐竹義里の養子となって常陸府中城主となり、兄の補佐を務めた。父は佐竹義昭、母は岩城重隆の娘とあるが、義尚の生年、没年は不明である。(ウイキペデイア)・・・ここからは角館の佐竹北家は浮かんでこない。

角館町史をみれば、もう少し詳しいことが分かるのかもしれない。

ウイキペデイアの「久保田藩」の項に、もう少し詳しい記載がある。

<なお、佐竹一族には本家の他に有力な4家があり、それぞれ東家、西家、南家、北家と呼ばれる(東西南北は常陸時代の拠点の位置から)。西家(小場氏、後に佐竹姓を許される)は大館城、南家は湯沢。

北家は角館に配され、東家は4家の筆頭として久保田城下に常住した。このように秋田藩では近世に入っても、地方知行制が強く行われており、藩政中期以降は藩主の権限強化の動きに対しトラブルの元となることもあった。

なお、佐竹4家には藩主の相続権はなかったが、支藩の養子を経て藩主を相続したケースはある。ちなみに秋田市長佐竹敬久は秋田(佐竹の誤り)北家当主である。>

東家、西家、南家、北家の由来が佐竹氏の常陸国時代というのは正しいのであろう。角館の位置は出羽国の北辺ではないからである。だが、それを裏付ける常陸国時代の資料をまだ見ていない。

関東の有力大名だった多賀谷氏を調べた時にも資料を求めて苦労した。多賀谷氏は佐竹氏と結んで下妻城に拠り、小田原の北条氏政の大軍を二度にわたって撃退、家康の暗殺を企てたといわれる多賀谷重経のような猛将が出ている。

重経は長女を佐竹義宣の正妻とし、さらに長男の三経を廃嫡して、次女と義宣の弟・宣家を娶せて、多賀谷家を継がせる政略家であった。これによって佐竹・多賀谷の盟友関係が強固なものになっている。それほどの戦国大名でありながら、関東で多賀谷資料を見つけるのは困難を極める。ほとんど皆無と行ってよい。

家康の逆鱗に触れた多賀谷氏は居城の下妻城を跡形もなく破壊された。重経は家康の追及を逃れて、琵琶湖の湖畔で憤死している。徳川260年の間に多賀谷資料は消えてしまっている。

僅かに多賀谷氏の足跡を探れるのは、佐竹文書の中から求めるしかない。

私は角館の佐竹北家を辿るのは、角館城にあった芦名家の興亡史から入るのがよいと思っている。まだ思っているだけなのだが・・・。

芦名家は相模国三浦郡から興り、源頼朝の平泉征伐の際に功名を成した。戦国時代末期、芦名家は男子が絶えたため、佐竹家から養子を迎えている。当主は佐竹義重の次男で、芦名義勝と名乗っている。

佐竹北家は六代・義廉の時代に義宣に従って、秋田へ移封となった。義廉の没後、義宣の末弟・義直が北家を継ぐが、佐竹宗家に男子がないために、義直は義宣の養子になった。これによって佐竹北家は一時、絶えている。

七年後に義宣は、妹の子である京の公家・高倉大納言永慶の次男・義隣に、佐竹北家を継がせてお家を再興させた。義隣は明暦二年に角館に入っている。義隣の子・義明は正室として京の公家・西三条実号の娘を迎えたので、この時代に角館に京風の雅な文化が伝わり、東北の小京都といわれる角館に変貌したのではないか。

まだ十分な資料の裏付けがない仮説に近いのだが、大筋では当たらずとも遠からずと思っている。地方史家のご教示を得たいものである。

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