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栄達を求めず力のかぎりに生きた人たち 古沢襄
ネット時代というのは、手紙が唯一の情報交換の手段だった私の青春時代とは想像も出来なかった広がりを持っている。私は三年前に「先輩においては藤田東湖に服し 古沢襄」という一文を杜父魚ブログに書いた。74歳の時である。

      http://blog.kajika.net/?eid=428695#comments

この中で幕末の逸材・藤田東湖のことを書いた。

<藤田東湖に関心を持ったのは、父が東湖の蔵書を遺して逝ったからである。膨大な蔵書を旧制中学時代から読んでいる中にすっかり東湖フアンになってしまった。西郷隆盛は「われ先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本左内を推す」と最大級の賛辞を東湖に呈している。幕末の勤王の志士たちは争って水戸を訪れ東湖の教えを乞うた。

父・古沢元は昭和十三年頃から東湖の資料を集め「藤田東湖」の小説化を考えている。「藤田東湖の伝記が多いのだが、不思議なことに小説がない」といい「東湖は日記・書簡から封事、詩賦、文章、論策と実に多くの文章を遺している。それを上手につぎはぎしていくだけで、多種多様な東湖伝が出来る。大部分の東湖伝は文献整理屋の仕事だ」とまで酷評した。

同時に「東湖には、殆ど全く色気がない。あるものは大義と酒だけだ」と東湖の小説化の難しさを嘆いた。それでも昭和十九年から東湖の小説を書き始めて、三分の一ほど書き上げたところで、出征して満州の地に渡った。未完の小説「藤田東湖」の原稿は、古沢元の生地・岩手県西和賀町にある菩提寺の玉泉寺資料館に保存されている。>

藤田 東湖(ふじた とうこ、1806年5月4日(文化3年3月16日) - 1855年11月11日(安政2年10月2日))は、江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。位階は贈正四位。

「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことにちなむという(千波湖は後に東側を中心に埋め立てが進み、元の3分の1ほどの大きさになったため、現在の生家跡から東に湖は見えない)。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。

父は水戸学者藤田幽谷、母は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野篁に遡ると言われ、中世に常陸へ移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で百姓を営んでいる。言徳の代に水戸城下へ移転し、古着商を営む。

<その生涯>
常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷に生まれる。1827年(文政10年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。

1829年(文政12年)の水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。

しかし、1844年(弘化元年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に1846年(弘化3年)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。

1850年(嘉永3年)にようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)には処分を解かれている。藩政復帰の機会は早く、翌1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。1854年(安政元年)には側用人に復帰している。

1855年11月11日(安政2年10月2日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。

墓所は茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地。尚、藩邸跡である東京都文京区後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板がある。藩邸跡に建立されていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。

翌年の三月、丹 豊さんという未知の人から短いが核心的なメールを頂戴した。 早速、杜父魚ブログのコメント欄に掲載させて頂いている。そのコメントに対して、私から返事を書いた。

from: 丹 豊 2007/03/23 11:35 PM
東湖の母の実家の子孫です。母の実家は「丹」氏です。

from: 古沢 襄 2007/03/24 2:09 AM
藤田東湖の母・梅子の出自はフリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』にある「父は水戸学者藤田幽谷、母は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野篁に遡ると言われ、中世に常陸へ移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で百姓を営んでいる。言徳の代に水戸城下へ移転し、古着商を営む」に拠ったのですが、「丹氏」の出というのは、大いに興味があります。

父・藤田幽谷は水戸学の祖といわれるくらいの人物ですが、藤田家の出自は高須芳次郎氏の「藤田東湖伝」でも/絽融垈蔀町の古着商・藤田与右衛門言徳の子藤田氏の系図は分からぬが、伝説では小野篁から出たといわれる・・・としています。(昭和16年著)

小野篁の末裔は、武蔵七党の横山党の支族で文武の才ある者が輩出しています。高須芳次郎氏は「藤田幽谷の祖父の時に常陸に流寓」と推定。与右衛門言徳も古着商をしていたが、気品があり、志高き人物であったとしています。その次男・与介(幽谷の幼名)を士分にするべく、幼少の時から学問の道に励ませております。この家系は、まさに武蔵七党の横山党の流れと私も考えています。

実は、これが丹家と藤田家を結びつける重要な手がかりになります。ご承知のように「丹氏」は、武蔵七党の丹党という屈指の大族。武蔵七党系図では宣化天皇の末裔で、天慶年間の故あって武州に配流、この地の豪族となっております。その荘園は二十五ともいわれています。

この支族が藤田家と同様に水戸に来た可能性があります。ウィキペディアの「町与力沢氏の娘」というのは、士分となった藤田幽谷との釣り合いをとるために丹家から、いったん沢家に入った形を整えたと私はみています。

私は母・梅子と東湖の往復書簡を読みましたが、梅子の手紙は女性とは思えないくらいの格調高きものです。丹家に伝わるもので、私の仮説とは違うものがありましたら、ぜひご教示下さい。

二〇〇八年になって藤田さんという、これも未知の方から次ぎような情報を得た。

from: 藤田 2008/06/27 12:16 PM
同姓の藤田と申します。藤田家の家系を調べていたところ、恐らく戦国期後半の矢貝城(筑波山麓)廃城後に、分かれた藤田家と推定します。廃城後、こちらは佐竹家家臣真壁家と共に秋田に移籍し、環境が厳しく、浪人後、白河藩の庄屋となりました。

from: 藤田 2008/06/27 4:04 PM
江戸初期の那珂郡は、寄居・本庄・深谷方面かと思います。このあたりはかつての藤田一族たちの勢力圏内です。また、藤田信吉の藩もありました。関が原後、藤田一族たちは一斉に刀を置き、多くが庄やとなりました。

手前どももその一つです。推測ですが、一時、那珂郡で庄やをしていたのだと思います。当時、小作人が土地を移動するのは、ほとんど不可能かと思われるからです。

庄やも百姓の一部ですが、実際は下級役人です。また、庄やでしたら、商いもしておりますので、諸藩の城下町に入りやすいと思います。

昨日、横浜の関さんという、これも未知の方から二〇〇七年の丹 豊さんのメールを見て、次のような情報を得ている。

from: seki 2009/02/14 3:54 PM
初めてメールします。横浜に住む関と申します。藤田東湖の門下生桜任蔵に関する情報を集めており、このサイトを見つけました。任蔵の息子春雄が、慶応2年丹家の経子を娶っております。丹 豊さんのメールを拝見致し書き込んだ次第です。

ここで出てくる桜任蔵は小説の材料になる様な波乱の一生を終えた東湖の門下生。

文化9年(1812)に常陸国真壁郡真壁の医者小松崎玄達の子として生まれ、安政6年(1859)大阪で病没した。享年48才。若くして藤田東湖に師事し、天保8年(1837)頃江戸に遊学、多くの知己をえている。西郷隆盛、吉田松陰など多くの志士と交友を結んでいる。

その人なりは、豪快そのもの。斗酒なお辞さずというのは師の東湖そっくりだが、無類の読書家であった。桜任蔵には世間の奇事の知らぬということがない。「足下達は、もし文章の材料に乏しかったら、桜のところへ行って話を開いて来るがいいだろう」とまで言われている。また礼に厚い人物でもあった。惜しまれるのは東湖と同様に明治維新の夜明けを見ずにこの世を去ったことだ。48歳の死とは若過ぎる。栄達を求めず力のかぎりに、あの時代を生きた人の一生は限りなく美しい。

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コメント
管理者の承認待ちコメントです。
| - | 2018/03/31 10:54 AM |
藤田東湖の母・梅子の出自はフリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』にある「父は水戸学者藤田幽谷、母は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野篁に遡ると言われ、中世に常陸へ移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で百姓を営んでいる。言徳の代に水戸城下へ移転し、古着商を営む」に拠ったのですが、「丹氏」の出というのは、大いに興味があります。
| rmt | 2011/04/06 8:32 PM |
私の妻の母は水戸の丹家の出で昔からの屋敷が今も残っております。私は妻の母から丹家に東湖の姉が嫁いできた話しを聞いております。偕楽園の地続きで屋敷は残っておりますが男系が絶え娘達は東京、横浜に住んで開き屋敷となっています。現在は三男が近くに住んでいる関係で屋敷を見守っております。伯父の話では丹家は水戸家に仕え代々、名に直の字をつけ本家の長男は丹直明(数年前死亡)と言い勘定方の仕事で古文書が残っているようです。この投書の豊さんとの結びつきは興味のあるところです。
| 飯田日出朗 | 2010/02/01 5:15 PM |
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