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自衛戦争か、侵略戦争か(下) 伊勢雅臣
■「日本はそれを脅威と感じた」■
こうした点について、キーナン検事と東條は法廷において次のようなやりとりをしている。

キーナン 1940年9月、アメリカは日本に脅威を与えておおりましたか?

東條   ここの証拠を提出しているように、相当の圧迫を受けておりました。         とくに、経済的圧迫を受けておりました。ご承知のように昭和14年7月、日米通商航海条約はアメリカに破棄され、日本政府は非常な圧迫を受けておりました。

キーナン 私はあなたに軍事的脅威があったかどうかを尋ねているのです。

東條   昭和15年5月と思います。アメリカの大艦隊は、ハワイに集結して         いたという事実を申し上げれば、おわかりだろうと思います。

キーナン アメリカが自国の半島や島々に飛行場や設備をつくるのは、防衛的意         味を持っていないというのですか?

東條   それはアメリカがどう考えるかは勝手であって、日本はそれを脅威と         感じた、そう申し上げているのです。

アメリカの大軍拡、およびハワイでの大艦隊集結は争うことのできない事実であり、日本がそれを脅威と感じたという点も、誰にも否定しようがなかった。事実においても論理においても、東條がキーナン検事を圧倒していた。

■「首謀者の言動は著しく挑発的となって来ました」■
もっともアメリカの軍備拡張が「防衛的意味」を持ってはいないことは、米英政府の挑発からも明らかであった。

・・・米英蘭豪の政情及軍備増強は益々緊張し又、首謀者の言動は著しく挑発的となって来ました。・・・

例えば1941年11月10日には「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会において「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は1時間以内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられました。

その翌々日「イギリス」の「ジョージ」6世閣下は議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられました。

「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於いて米国は自由維持のためには永久に戦わんと述べ前記英国首相ならびに国王の言葉と相呼応して居ります。「ノックス」海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時至ると演説したのであります。

日本を経済的に追い詰め、大軍拡による戦争準備を進め、その上で「さあ、かかって来い」と日本を挑発してきたのである。これらの挑発は、「我国朝野を刺激し」、と東條は述べている。議会も新聞も、対米開戦を求める声を上げていた。

■「米国は日本の受諾し得ざることを知りて通知」■
こんな状況の中でも、日本政府は外交交渉を通じて戦争を回避しようと、最後の努力を続けていた。日本政府が11月5日に最終の譲歩案として米政府に提案したのが、甲乙二案であった。特に乙案は、日支間の和平が成立すれば日本軍を引き上げると約束した上で、石油禁輸、資産凍結を解除してもらいたい、という最終譲歩案であった。

この2案を承認した御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製

四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ

を読み上げられ、「自分はこの明治天皇の平和愛好の御心を実現したいと思っている」と述べられ、満座粛然として、しばらくは一言も発する者はなかった、という。

米国がこれへの回答として送ってきたのが、「ハル・ノート」であった。支那からの無条件撤兵、すでに数十各国から承認されている満洲国の否認、南京国民政府の否認など、それまでの交渉を白紙に戻したような強硬な要求が並んでいた。

これを受け取った日本政府は「米国案の過酷なる内容に唖然たるものがありました」として、こう解釈した。

米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。・・・米国側において既に対日戦争の決意を成しているもののごとくである。

ここに至って、日本政府はようやく対米英戦争を決意した。

■「国に報ゆることの足らねば」■
東條供述書は次の一節で締めくくられている。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、かつ且法律的性格の問題であります。私は最後までこの戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。・・・

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります。

昭和23(1948)年11月4日、東京裁判の判決が下され、東條は絞首刑を言い渡された。東條は満ち足りた表情で、二度ほど「分かった、分かった」というように頷いた。裁判で言うべきことは言った、という思いがあったのだろう。

東條は清瀬弁護人に対して「再審請求は行わないでほしい。一日も早く刑を執行していただきたい」と語った。それは「侵略戦争」を起こした罪からではなく、国民に対する敗戦の責任をとる道であった。絞首刑は12月23日に行われ、東條は次の辞世を遺して世を去った。

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に報ゆることの足らねば

さらばなり苔の下にてわれ待たん大和島根に花薫るとき

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