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内蒙古省のフフホトにて 宮崎正弘
▲夜空の星が手に取れるほど近くに感じた
フフホトはモンゴル語で「青い城」という意味である。漢字では「呼和浩特」を充てているが、発音を聞いていると「フート」。この辺境の町の人口はイメージと異なり、150万人に近い。

街の看板はモンゴル文字と漢字が併記されており、なにやら中国という印象が薄い。多くの市民は両方を読むという。

夜中近くにフフホト空港へ着いた。星が手に取るほどに近く、美しく輝いていた。市内までのタクシー運転手は酒気帯び運転、しかも荒っぽいハンドル裁き。よく笑う。
道には照明もなく、真っ暗だから酒気帯びなんぞわかりはしないという感じなのである。

僅かに道の両脇に細々と営業するモンゴル料理のレストランから漏れてくる光と、対向車のヘッドライトで進行方向のでこぼこ道を見分けている。

翌朝、ホテルの窓からフフホト市内を展望すると地平線が見渡せるほどの平原なのだ。この大草原の所々に高層ビルが並ぶが、あとは平屋か二階建てという都市の構造をしている。

朝の散歩に貧民街を歩いた。想像した通り道はひどくぬかるみ、水たまりを避けて歩く。クルマが勢いよく走り抜けると黒い水泡が四辺に飛び散り、水たまりも漣(さざなみ)をおこす。路地裏は異臭を放っている。

屋台が隘路の両脇に店を拡げて、たとえば十年以上の前の古本やら怪しげな麺や、キュウリを売っている。整合性も脈絡もない商品が個人の屋台には並んでいる。

日干し煉瓦を泥で固めてつくった粗末な家屋が入り組んだ迷路。妙な臭いが鼻をついた。人々が着ている衣服も見窄らしいが、誰もそんなことを構ってはいない。

フフホトで代表的なチベット寺院と言えば大召(ダージャォ)と金剛座舎利宝塔。私は真っ先にダージャォのほうに参詣に行った。

境内には入り口の両脇に閻魔様や「鍾キ様」に似た木像が置かれている。銀の釈迦牟尼像があり、巨大な香炉がある。

▲ダライ・ラマを連想する仏具、仏画は取り払われていた
この寺は明代の建物で1580年に完成、中国語では無量寺と呼ばれる。中庭に入ると四阿風のなかに鎮座する石碑にはチベット語が併記され、法衣を纏った若い僧侶らがあたりで必死に御経を覚えている。修行僧らは若く、顔にあどけなさが残っている。

対面の道路をしばらく歩くと「席力図召」(チベット語のシテトガ(主席)を充てる)という仏教寺院がある。この寺にはダライ・ラマゆかりの仏典が明代には祭られていたとの伝承があるが、いまはダライ・ラマを連想させる仏具仏画はない。肖像画さえない。

境内は静寂を極め、清澄な空の下に雀がチチッと鳴きながら悠然と舞っている。空気が綺麗で心も清涼になる。都会の真ん中にこれほど静謐な喧噪とは無縁の世界に浸れるのである。 

ところが大召寺、席力図召などが集中する仏教寺院街の裏町には突如としてイスラム帽を被った回教徒の町となっている。

細い路地に自転車に大きな荷を積んでムスラムが行き交い、酒の看板がない。「清真料理」、「清真寺」は、中国でイスラムを意味する。

これはスターリンの強制移住に似た、非漢族の移住による少数民族地区の支配メカニズムの残滓である。

▲昭君墓で考えたこと
フフホトの市内から南へ十キロ、牛馬の放牧地をくぐるように抜け、道路を砂塵を巻き上げながら私の乗ったタクシーは「昭君墓」まで飛ばした。

この昭君墓は黒河河畔の小高い丘を中心に小ぶりな公園となっており、中央に黒光りする昭君が夫君と「馬上に乗って漢を眺める」格好の巨大な銅像が立つ。

昭君は別名、「大昭君」と言われ、楊貴妃と並ぶ中国四大美女の一人だ。前漢時代、紀元前33年に「呼韓邪単宇」に嫁いだ歴史上のヒロインである。

墓公園中央の昭君像の前にはゲル(中国語はパオ)の模型とモンゴル民族衣装を並べた業者、そこに観光客が蝟集している。記念撮影を撮らせ代金をとるからである。

脇のテントは土産屋で、チンギスハーンの肖像やら模型の剣、まったく時代考証もちぐはぐである。
なぜなら昭君は紀元前のひとで本名は明妃。チンギスハーンとの接点はまったくない。

昔、「きょう奴」と漢族が戦った日々、両民族の和解を求めて昭君は「きょう奴」に自ら嫁いだ。

蒙古語で昭君はチムール・ウニフという。昭君墓はまさに司馬遷の「史記」を嚆矢とする「漢族史観」に立脚した解釈で成り立っているのである。

青海省は青海湖の日月亭(標高3900メートル)に聳える「文成公主」像と同じ発想で、要は漢族が主体であるという「降家史観」なのだ。

銅像が象徴するような現代的解釈としての「他民族との融和」は措くとして、当時から既に「漢族が」(要請をうけて)「他民族地域へ」(渋々ながら)「遣わして嫁入りさせた」という司馬遷の一方的な解釈が前面にでているのである。

宣伝用に公園やら銅像やらを建てても被抑圧側の少数民族が漢族の遣ることを素直に捉えるはずはないだろう。

▲漢族の降家史観
わが和宮降家とは、まったくわけが違う。勤王左幕派と反・徳川派との融和といったレベルの話ではない。殺すか殺されるかの戦争時代に一時的戦術としての和平手段の行使である。昭君が「きょう奴」に嫁がざるを得なかったのは当時それだけ漢族の方が弱かったからで、万里の長城を築いてもなお、漢族は強桿な遊牧民の軍事力に叶わなかったのだ。

文成公主にしても紀元七世紀にチベットの王へ嫁いだ理由は当時のチベットが隋の都長安を陥落させたほどの軍事大国=「吐蕃」の脅威を和ませるためだった。だから漢族が吐番に「朝貢」した格好なのだ。

フフホト市内の目抜き通りにはイスラム寺院が荘厳な社を拡げ、瓦屋根のモスクや、ミナレットなどを目撃すると奇妙な印象を受けるが、付近の住民はモスクを一瞥するだけでイスラム帽だけはしっかり被り、羊肉を旨そうに食べていた。

ぽつんとキリスト教会があったので入ろうとしたら入り口に鍵がかかっていた。

これら異教徒の寺院が、チベット仏教寺院を取り囲むように配置され、多彩な民族が混在する形をとっている。都市つくりにかけてもチベット仏教に敵対的な他民族、異教徒で囲繞させるという配置(同じことを昨今はラサで展開中)。中国共産党は都市設計においてもこれほど狡猾でしたたかである

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| 宮崎正弘 | 09:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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