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日教組は占領軍の遺失物 渡部亮次郎
戦前、田舎の結婚式はすべて家庭の座敷で執り行われ、そこには小学校の校長先生、駅長、駐在所の巡査が招待され上座に坐った。だが敗戦で日教組ができると校長はよばれなくなった。

敗戦の1945(昭和20)年、マッカーサーを先頭とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は12月、民主化の一環として教員組合の結成を指令した。

1947年(昭和22年)6月8日に奈良県橿原市で日本教職員組合の結成大会が開かれた。

大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、六三制完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。

私は後に日米間の教育交流事業に携わる機会があり、アメリカの初等、中等教育の実態をつぶさに視察した。レーガン大統領(共和党)が、アメリカの小中学生の学力レベルの低下を嘆き、日本に視察団を送ってきたりしていた。

ところが、彼らが持ち帰った結論は「PTA活動の充実」と「塾の発達」だったから驚いた。実際、アメリカの実態を見ると、父母は仕事に追われて教育は学校任せになっていた。

ところが任される教員は教科書を自分で作り努力しているにも拘わらず年収は300万円という低さ。社会的地位も低い。これでは聖職者である前に労働者としての権利を社会に要求を突きつけ、ストライキも辞さないのは当然だと感じた。

敗戦後すぐ遣ってきたGHQの連中にはアメリカで敬遠されている左翼が相当いたという。一方、教育を無力化することで「日本精神」を骨抜きにしようとする右側の意図とも重なって日教組の結成指令に繋がったのだと解釈した。

1950年6月、朝鮮戦争が勃発し、マッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を“反共の砦”と位置づけた。

一方で、日本政府は独立を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活など、一部から戦前への逆コースといわれる教育政策を志向し始めた。

再軍備や戦後教育を見直す動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」を採択し、戦後教育に関する運動を開始した。

また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。

その後も、「教師の倫理綱領」を定めて新しい教員の姿を模索する一方、文部大臣(現在の文部科学大臣)と団体交渉を行ってきた。

教育の国家統制や能力主義教育政策に反対する立場を取り、1956年(昭和31年)における教育委員会が住民による公選制から首長による任命制に移行することへの反対、

1958(昭和33)年における教員の勤務評定を実施することへの反対、
1961(昭和36)年における日本の全国統一学力テスト実施への反対、
1965(昭和40)年における歴史教科書問題をめぐった裁判(家永教科書裁判)運動の展開などを行った。

また、同じく教育の国家統制に反対する立場から1950(昭和25)年以降、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対し続けている。

国政においては、日教組の政治組織である日本民主教育政治連盟は、1956年の総選挙で日本社会党などから推薦候補20人(うち、日教組組織内候補13人)を当選させ、1956年の参院選では10人を当選させた。

一方、政府・与党側では、第5次吉田内閣の大達茂雄文部大臣(自由党)が「日教組征伐」を叫び、1954年5月14日には教員の政治的中立を定めた教育2法を成立させた。

また日本民主党(現在の民主党とは別物)も、1955年8月13日に刊行した小冊子『うれうべき教科書の問題』の中で日教組批判を展開した。こうした対応の背景には思想的対立に加え、社会主義政党を支援する組織に打撃を与えようとする選挙対策としての側面もあった。

1991(平成3)年に、日本教職員組合を構成していた多くの組合員や一部の単位労働組合(単組)が脱退し、全日本教職員組合(全教)を結成した。

1994年(平成6年)には、日本社会党の路線変更に伴い、それまで社会党を支持していた日本教職員組合も方針を変更し、文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、形式的には文部省と和解した。

自民党にはこれは和解ではなく文部官僚の日教組への屈服だと受け止める向きが多く、発足したばかりの麻生内閣でお門違いの中山国土交通大臣が早々と辞任に追い込まれたのも、背景に怯える日教組の姿勢を反映したものといえる。

公立小・中・高等学校における組織率及び組合員数は、文部省及び文部科学省発表による。単組数は直接的な下部組織のみ。

1958年(昭和33年):86.3%(調査開始時)
2003年(平成15年):30.4%、76単組、組合員数約31万8000~33万人
2004年(平成16年):29.9%、76単組、組合員数約31~32万2000人

2006年(平成18年):28.8%、76単組、組合員数約29万6000人
2007年(平成19年):28.3%、76単組、組合員数約29万人

都道府県で組織率に格差があり、山梨県、静岡県、愛知県、新潟県、福井県、三重県、兵庫県、大分県などで比較的高い組織率を保つ一方、、和歌山県、愛媛県など、ほぼゼロのところ、栃木県、京都府のように、100人前後を組織するにとどまるところもある。

また、2007年10月1日現在の新採用教職員の加入者数は5,560人(約21.7%、前年比0.2ポイント減)。出典:『ウィキペディア』

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