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敗戦前夜の猛爆撃 渡部亮次郎
昭和20年8月の敗戦前夜、アメリカ空軍B29機141機による猛爆撃を食らった。もうお手上げをしていたのに何十人も殺すことがある、それが以後、私の国際関係を見る基礎となった。アメリカも苦しい時は正義を破る。

程なくそれは東京裁判に表れ、マッカーサーの恨み晴らしの虐殺判決となった。長じて反米闘争に走ったりはしなかったが、土崎の恨みは消えていない。

大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争或いは第2時世界大戦と呼ぶ)敗戦前日の1945年(昭和20年)8月14日夜,秋田市土崎(つちざき)に対して米軍が空襲を行なった。

後に考えれば全面無条件降伏ポツダム宣言受諾を連合国側に通告した後の午後10時半ころからB29が来襲し,約4時間にわたって土崎地区を爆撃したのである。正義の国のやる事ではない。

攻撃目標は,日本石油の製油所と貯蔵タンクだった。工業地帯を攻撃する場合は,普通白昼に行われ,精密な爆撃が多い中で,土崎の場合は後にわかったことだが、夜間レ−ダ−スコ−プ写真による計算で爆弾が投下されたのだ。

私は小学校(国民学校といった)4年生、9歳だった。県立秋田中学(旧制)2年の兄は勤労動員で田沢湖周辺の農家作業員として泊り込んでいた。祖父、両親、姉、妹2人に私と言う7人家族。

数キロしか離れていない土崎に火の手が上がって上空に聞いたことの無い大爆音。投下した爆弾の炎に腹を赤く染めて八郎潟を周回するようにして現場に戻ってゆく。田圃の畦道に身を伏せて見上げる私には、1ヶ月前の艦載機の襲撃に続く2度目の「敵機」襲来。震えていた。

4時間の爆撃の結果,石油精製工場の87%,貯蔵設備の70%が破壊された。しかも,夜間の攻撃では目標が外れやすく,工場周辺の住宅地も巻き添えをくった。

飯島穀町・大浜・ハマナシ山・古川町・七軒町・稲荷町・上酒田町・新城町などに投弾され,特に通称ハマナシ山には日石社員の住宅があり,住民の被害が大きかった。余談だがはまなすではなく浜梨が正しい。

「日本の空襲」には,ANIM30型爆弾386トン,ANIM50型爆弾585.9トンなどが投下されたと記録されている。死者102人(日石社員・家族37人,一般市民48人,軍人17人)とされている。

全焼戸数104戸,半焼6戸,全半壊合わせて30戸とされている。

1975年(昭和50年)爆心地に近い公園に「秋田港被爆者慰霊碑」が,平和を願う土崎地区の人々を中心にして建立された。秋田文化出版社発行の「はまなすはみた」 (佐々木久春・斎藤昇,1981年8月初版)に詳しく紹介されている。

2007年、読売新聞秋田支局が特集を組んだ。以下引用。

終戦前夜、生と死分かつ炎の土崎

宇佐美峰吉(86)は秋田市土崎地区の自宅で眠れずにいた。蒸し暑い夜。いつもの夏のように、生ぬるい“だし”と呼ばれる南東の風が吹いていた。

突然の大音響に跳び起き、屋根に登った。勤務する日本石油秋田製油所方面に火の手が見えた。「やられた」。敵機監視班長でもあった宇佐美は鉄かぶとを持ち、家を飛び出した。

約1キロを全力で走り、製油所に到着した。けが人を救出したが、一方的な爆撃になすすべもなかった。社員らに「逃げろ」と指示し、自分は班長として現場に残った。死を覚悟した。

くぼ地を掘り、身を潜めた。不気味なうなりを発し米軍爆撃機B29が低空で向かってきた。全長30メートルの腹と尾灯を仰ぎ見た。建物が跡形もなく吹き飛ぶ爆弾の威力を目の当たりにした。

1945年8月14日午後10時30分ごろに始まった「土崎空襲」は、翌日午前3時30分ごろまで続いた。秋田県が受けた最初で最後の大規模空襲は、日本国土を襲った終戦間際の空爆の一つでもあった。数十とも数百機とも言われるB29は、ターゲットの製油所を中心に1000トンを超す爆弾を投下、社員、住民ら多数の命を奪い去った。

この日の夕食前、「あす15日に天皇陛下から重大放送がある」と聞かされた。県警察部(現県警)警防課警部補の皆川忠彦(90)は「終戦」を感じ取っていた。

秋田市中心部の「防空本部」近くの食堂で夕食を取っていたとき、ラジオが山形県に警戒警報が発令されたと伝えた。「まさか」。本部に駆け戻ると間もなく、市内に警戒警報が発令された。それはすぐ、空襲警報に切り替わった。

本部のベランダから空を眺めた。グワン、グワンと爆音をとどろかせ、土崎方面に向かうおびただしい機体を見た。航跡を報告書に書き込むため、地下室には避難できない。

B29は旋回を繰り返し、爆弾を投下し続けた。ポン、ポン。おもちゃのような音がした。軍の高射砲だった。日本の非力をかみしめた。

「予感はあった」と浅野文治(86)(同市土崎港南)は言う。7月から2回、上空に現れた米軍機が、秋田を攻撃目標の一つとして挙げるビラを落としていたのである。

恐れていた現実が迫ろうとしていた。14日午後9時30分ごろ、ラジオが「B29が日本海沿いに北上中」と伝えた。やがて激しい轟音(ごうおん)が響き、ぱらぱらと壁土が落ちた。

製油所が燃えていた。自宅前の防空壕(ごう)に避難したが、炎はにじり寄っていた。妻の喜代(81)を松林に逃げさせた。一時的に攻撃がやんだ。土崎空襲“空白の30分”と呼ばれる時間帯だ。

そうとも知らない41歳の親戚浅野トメは、子ども4人を連れて家に戻っていた。空白後の第2波が家族を襲った。15日朝、トメの家を訪れた。供養しようにも骨は見つからなかった。

「直撃弾に 一家五人は 跡もなく 大きな穴のみ 残る朝明け」。浅野は1972年に自費出版した短歌集の中でこう詠んだ。盆暮れに5人の墓参りをするたび思う。「終戦があと1日でも早ければ、たくさんの命が救われた」

宇佐美は生きた。15日正午、家族と共に昭和天皇の声を聞いた。敗戦など想像もしなかった。体から力が抜けたまま、1日を過ごしたことだけを覚えている。

死を覚悟した15日を自分の「命日」と思い、願いを込めて、宇佐美は戦禍を子どもたちに語り継いできた。「生かされている代価として、戦争を起こさない世の中に」と。(敬称略)

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