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萩原尊禮氏の「江戸ー東京の直下地震」 古沢襄
東北で大地震が頻発するご時世だから大地震ものの本を出したら売れるだろうと商売人は考える。過去にもフィリッピンのルソン島・ピナトウボ火山が20世紀最大の大噴火を起こし、日本からフィリッピンにかけての地底で何かが起こっていると噂された。

そこから富士山大爆発や東京大地震が噂され、週刊誌や新書版の大崩壊ものが売れに売れた。その半面、学問的な「東京圏直下地震論」は少ない。私がみたのは、地震予知総合研究振興会のPR誌「地震ジャーナル」に載った「迫りくる東京圏直下地震」(1990年12月号)ぐらいではではないか。

しかし、この特集は今読んでも十分に通用する。

地震予知総合研究振興会の会長だった萩原尊禮・東大名誉教授は地震学の大ベテランだが、江戸から東京にかけて過去三百年間でM7クラスの直下型地震が四回あったことを古記録から探っている。

萩原先生の「江戸ー東京の直下地震」をあらためて紹介したい。

地震史料の点からいうと、江戸時代に入ってからは史料の数が次第に増し、江戸中期以降は文筆人口が急速に増して、史料の数も増えるが玉石混交なので良否判断に骨が折れる。江戸時代以前となると江戸に関する地震史料は皆無。

江戸あるいは東京に大きな災害を与えた地震としては、元禄十六年(1703)の関東地震、大正十二年(1923)の関東大震災、安政二年(1855)の安政江戸地震の三つが有名である。このうち安政江戸地震のみが直下地震である。

かつて今村明恒は、安政江戸地震に次ぐ江戸の大地震として慶安二年(1649)の江戸地震をあげた。明治三十八年(1905)に東京大地震の来襲について学界で論争が起こったが、今村は”近い将来に東京に大地震が来るおそれあり”とする論拠の一つに慶安二年の江戸地震をあげた。

今村は慶安二年、元禄十六年、安政二年の三回の地震は、すべて夜間に発生し、平均百年に一回の割で起こっていることを指摘した。

萩原先生はさらにプレート・テクトニクスと東京直下地震についても触れているが、関東地域の地下で起こっている地震発生のメカニズムは、かなり一般に知れ渡ったので、ここでは触れない。詳しく知りたい方は毎日新聞社が1991年に発刊した「東京直下地震」をお読み頂く。

さて安政江戸地震だが、長い間、浅い地殻内地震だと考えられてきた。しかし関東地域のプレート構造が明らかになるにつれ、過去の東京に被害を与えた地震の多くはインター・プレート地震によるという考え方が強くなっている。

インター・プレート地震とは深いところで起こる地震。たとえば岩手沿岸北部地震は震源の深さが約108キロと深い場所で起きている。M6・8の大地震だが、地表に与える影響は小さく、しかし影響面積は広い。概して余震が少ない。インター・プレート地震では再来周期が100年から200年という比較的規則正しい間隔となる特徴がある。

これと対照的なのは浅い地殻内地震。Mが小さくても地表への影響は大きく、しかし影響面積は狭い。余震が多い特徴がある。地殻内地震では再来周期は数千年という長さになるという。

安政江戸地震の史料は膨大だが、M7クラスの大地震にしては強い震度の範囲が広かった資料がかなりでている。むしろインター・プレート地震だったという論拠に立てば、震源が深い地震だったことになる。

慶安二年の江戸地震は三代将軍家光の時代で江戸初期だから地震史料の数が限られる。最近まで地震の震央は日光の被害が大きかったことから、漠然と江戸の北方と考えられていた。しかし最近の史料で川越で町家七百軒が大破し、田畑にも地変があったことから川越大地震と呼ばれたことも分かった。今では震央は川越で、余震の多さから浅い地殻内地震だとみられている。

この地震の翌月、江戸で震度5と思われる地震が発生した。川崎で民家百四、五十軒、寺院七カ所が潰れ、人畜の被害が大きかった。川崎付近を震央とするM6クラスのごく浅い地殻内地震とみられる。

また、この三十四年前の元和元年(1615)に江戸に地震があった。「江戸地震強く震い、家破れ地裂け、死者多し」の史料があるが、史料不足でこれ以上のことは分からない。元和元年は大阪夏の陣、五月七日に大阪城は落城し、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で自害した。地震は六月一日。情報化の時代なら”淀殿の呪い”と騒がれたであろう。

正保四年(1647)にも大地震があった。「武蔵、相模両国、地震うこと強く、江戸城城壁および馬入川渡船場など破壊し・・・」の史料があるが、小田原城の被害が甚大だったことから小田原寄りの震央説が有力。

関東大震災の前のことになるが、明治二十七年(1894)に東京地震があった。六月二十日のことである。八月一日に清国に宣戦を布告、日清戦争が勃発した。震央は東京湾北部、神田・本所・深川で全半壊が多く、東京で死者二十四人。明治二十七年頃は地震に関する知識が低かったために、この地震の震源が浅かったか、深かったかが明らかでない。国をあげて東洋の大国・清国との戦争に没入していた。

地震の予知はまだ確立されていない。萩原先生は「江戸ー東京の直下地震」の中で過去の大地震のデータを分析し、一定の法則を導きだしている。

そこから東京に大きな震度をもたらす直下地震として、つぎの三つをあげている。

。唯競ラスのごく浅い地殻内地震(例 慶安二年の川崎地震 M6・4)
■唯轡ラスの地殻内地震(例 慶安二年の江戸地震 M7・0)
M7クラスの深いインター・プレート地震(例 安政江戸地震 M6・9、明治27年東京地震 M7・0)

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