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北の都に秋たけて 堀江朋子
北の都に秋たけて
吾等二十の夢数ふ
男女の棲む国に
二八に帰るすべもなし

第四高等学校(金沢)寮歌である。正式には大正四年第四高等学校時習寮南寮寮歌と言う長い名称となる。みち草の客の玉田さんの持ち歌である。寮歌の場合、唄でなく、歌である。だから、この場合、「新宿・うら道・歌につれ」となる。

流しのマレンコフが携帯する歌詞の本「日本の詩情」(阿部徳二郎・今井巌共編、流行歌二、八五三曲)には、第一高等学校寮歌「あヽ玉杯に、花うけて」や北大寮歌の「都ぞ弥生」は載っているが、「北の都」は載っていない。

が、玉田さんは、八番まである歌詞を諳じていて、マレンコフの伴奏で、よどみなく歌う。四高には三高(京都)へ遠征する時に歌う南下軍の歌、「たゞに血を盛る」という勇ましい歌がある。

この二つの歌は玉田さんの心の中で対になっていて、「北の都に秋たけて」に続いて、アイン、ツヴァイ、ドライ、のかけごえとともに、「たゞに血を盛る」が必ず歌われる。「北の都」は、明るく、優しいメロディーだが、南下軍は、短音階の重厚な旋律である。南下軍は、名古屋の八高、岡山の六高との対戦の時にも歌われた。

ビブラートのきいたテノールで玉田さんが歌う清明な寮歌は、その時代を知らない私をもある郷愁にさそう。

二八に帰るすべもなしの 二八とは、二八は十六、十六歳のことである。

年頃のこと、女性で言えば、番茶も出花の頃である。同じ意味で二九というのもあるが、二八の方が語呂がよい。青春の真中にいる二十才の青年が、十六歳に帰るすべがないとは、その時すでに、人生の無常を感じていたと言うことか。

玉田さんは府立高校出身で四高出身者ではないが、旧制高校出身者の中では、この寮歌を愛唱する人が多いという。歌い易いメロディーということもあるが、歌詞に寮歌に特有の観念的な悲壮感が少ないせいではないだろうか。

玉田さんは、大正十五年生まれ、中高年の多いみち草の客の中でも、年配の方である。客としては比較的新しいが、店に顔を見せる頻度は一、二を競う。

顔も頭もその名前のようにまんまるい。性格もまあるく、温厚な紳士で、人の話に頷きながら、いつも目のふちが微笑んでいる。声高に自分を主張をすることのめったにない玉田さんが声を荒げる時は、酔客が女性に対して下品な言葉を吐く時と、尊大な客がママの和子さんや他の客に対して、失礼な言葉を言う時である。そんなとき、玉田さんはやおら立ち上がって静かにこう言う。

「ここはあなたの来る所ではない、帰りたまえ」

たいがいの客はその気迫に押されて引き下がる。しかし、相手も引き下がらず、言葉の応酬になることもある。そんな後、玉田さんはしばらく店にあらわれない。玉田さんは含羞の人なのである。寮歌を歌う時もはじらいが頬を染めて、そこが好ましい。そして、寮歌祭の愛好家である。

日本寮歌祭は、昭和三十六年秋に文京公会堂で第一回が行われ、平成十年で第三十八回を迎える。私は、この寮歌祭に、旧制山口高校出身の人に連れられて行ったことがある。私を連れて行ってくれた人も数年前に亡くなり、その時のことも追憶となってしまったが、その場の雰囲気は、今も心に残っている。

旧制高校のシンボルと言われる寮歌にも、威勢の良いものもあれば、哀調に満ちたメロディーもあった。歌詞に綴られる青春の夢や感傷にも、時代が感じられた。漢文調あり、新体詩調あり、民謡調ありで、言葉の意味は、今の若者には殆ど理解できないのではないか。例えば、府立高等学校第九回記念祭歌(昭和十三年) の

一.見よやローマの壮大も/それ一狼の能くするを/畢生人と生まれきて/虚栄はかろし水の泡、の歌詞は何となく理解できたが、

三.蚊龍水に意気昴り/虎山に居て威獰あり/文武智説く笛鳴りて/健児が集ふ八雲岡のはじめの二行は、意味がわからなかった。蛟龍は、こうりゅう又はこうりょうと読み、水中に住む龍の一種で、転じて志を得ぬ英雄のことなどということは、辞書を引いてやっとわかった。

蛟龍雲雨を得る、という言葉は『三国志』にでてくる有名な言葉だそうだから、私の知識のなさでもある。威獰という言葉は、私の持っている辞書にはなかった。字ずらから意味を推測しただけである。四フレーズ目の健児という言葉も、乙女という言葉とともに、今の世相では死語に近いのではないか。

この時の寮歌祭で、明治、大正、昭和と作られ続けた寮歌は、二千余りもあるということや、寮歌を残して、戦争で死んでいった若者がいたことを知った。しかし、年配の男の人たちが詰め襟や羽織り袴姿で、蛮声を張り上げるその場の雰囲気に、正直言って、最後まで馴染めなかった。

同じ時間を共有したもの同志の懐旧の場に、全くかかわりのないものが飛び込んだ戸惑いと言ったものだった。

私は昭和三十一年に六、三、三、四制の高校に入学した。六、五、三、三の旧制の中学の中学三年にあたる年である。入学した高校も旧制中学の系統であったから、男女の比率は三対一で男が多かった。

ばんからの気風、制服もない自由な校風で、勉強を強制されたことはなかった。まだ旧制の中学や高校の自主と自治の気風が色濃く残っていた。がり勉もいたが、政治運動にもかかわる者もいた。主義や社会改革にまだ夢を持てる時代だった。

私自身はがり勉でもなかったし、政治運動にも関わらなかった。全く政治に関心がなかったわけではないが、団体やサークルに属することはしなかった。六十年安保闘争のデモに参加したが、学生自治会やサークルに関係なく、一人でデモに出かけて行った。

また、その頃、歌声運動というのが盛んで、「灯」とか「トロイカ」といった歌声喫茶があって、「カチューシャ」「ともしび」「仕事の歌」「郵便馬車の御者だった頃」「原爆許すまじ」などといった歌が歌われていたが、そういう場所にも行った事はなかった。

大勢で声をあわせて歌うということに気恥ずかしさを覚えたし、連帯感も持てなかった。主義も歌も、自分の心のうちのものと思っていた。片意地を張った青春だった。その時は意識していなかったが、今思えば、若い日にプロレタリア文学運動に参加して、挫折した両親の屈折が、私の心に投影されていたのかもしれない。

自由の為に死するてふ
主義を愛して死するてふ
男の児の意気地今も尚
石に砕きて砕き得じ

自由の為に死するてふ/主義を愛して死するてふ、という歌詞でさえ軍部ににらまれたという時代に、左翼運動に関わって激しい弾圧を受けた父と母の心の陰影は深かった筈である。(杜父魚文庫から再録)

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