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ルーツを求めて20年(3) 古沢襄
古沢家過去帳では安永2年(1773)に没した玄質道了信士を筆頭にしているが、さらに雫石邑生まれの添え書きがある。私の頭から雫石・古沢氏という存在が離れなかった。その雫石・古沢氏から沢内・古沢氏が枝分かれしたと考えた。

十年前の1998年夏のことである。「雫石の古沢が見つかった。墓碑が広養寺にある」と教育長の高橋繁さんが知らせてきた。所用が重なって沢内村を訪れたのは、秋が深まり冬の到来を思わせる霙(みぞれ)の降る日だった。

雫石町の旧家に伝わる古文書に「岩持忠兵衛家本」という1591年(天正十九年)から1864年(元治元年)までの記録(写本)が現存している。

書き出しは「天正十九年、此年、古大膳様、九戸左近将監御退治也、太閤秀吉公の御名代として、浅野弾正長政・蒲生飛騨守・伊井兵部少輔・長崎軍奉行として、石田治部少輔、上使ニ而御退治也」とある。

筆写の署名が、雫石町古澤屋理右衛門義重。、裏表紙に「寛政九丁乙歳六月初旬写之、雫石町理右衛門義重」とある。その理右衛門義重の墓が雫石町の曹洞宗・広養寺にあるというのであった。

前教育長の加藤昭男さん(後に沢内村長 故人)が運転する車に乗り込んだのだが、繁さんはバケツに大きな半紙、墨汁を持ってきた。「どうするの」と聞いたら、墓碑銘の拓本を取るのだという。

こういう話になると一食や二食抜いても夢中になる三人組。だんだん霙が激しくなってきたが、槍が降ろうが霙が降ろうがお構いなし。でも広養寺に着く頃には、三人とも身体がすっかり冷えていた。連絡をしてあったので、和尚さんの奥さんが暖かいお茶を出してくれた。そのお茶で手を温めた。

広養寺には豪商・高嶋屋一族の墓所がある。盛岡藩の御用を務め、盛岡の豪商と張り合った実力商人。寛保二年(1742)に新田四十石を拝領、刀指しを許されている。その墓所の脇に「古沢利右衛門・文化八年十月六日」の墓がひっそりと立っていた。

その後の調査で古澤屋理右衛門義重の人物像が分かってきた。寛政8年(1796)から文化7年(1810)までの14年間は雫石に居住し、豪商・高嶋屋の庇護を受けて、門弟を多数持った寺子屋の師匠。この人物は雫石に忽然と現れた謎多き人である。墓は門弟たちが建てたものであろう。

身寄りは妻一人。理右衛門義重の墓の隣にもう一基墓が並んである。慶応2年(1866)に雫石地方の検地が行われたが、この地から古沢姓は消えている。現在でも古沢姓は存在しない。

理右衛門義重はどこから来たのであろうか。二基の墓の拓本を取ったのだが、墓の紋章が伝えられるように高嶋屋一族の「相香」紋と同じ様には見えなかった。むしろ「鳩之巣」紋の様に見えた。

ついでながら紫波町北田の古沢清右衛門家の家紋は「梅鉢」紋。いずれも沢内・古沢氏の「蔦」紋とは違う。「蔦」紋は鬼怒川西岸の川尻・古沢氏の分家筋から多数発見された”関東の紋章”である。また「鳩之巣」紋は関東の武士に広まった紋章で、下妻・古沢氏の紋章でもある。これらの謎はまだ解けていない。(つづく)

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