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水戸はご謀叛のお家筋 古沢襄
「水戸は代々ご謀叛のお家筋」という言葉がある。播州・赤松氏の血筋と思っている私は「ご謀叛のお家筋」は人ごとではない。興味があって水戸のことを調べた時期がある。父・古沢元は藤田東湖に惚れ込んで水戸にのめり込んだが、私は「ご謀叛のお家筋」に惹かれて水戸の資料集めをした。

徳川御三家、天下の副将軍を出した水戸家だが、調べてみると家康公以来、徳川宗家とは縁遠くなっている。水戸の藩祖は家康の十一男・頼房だが、幕末には家康を祖とする分家でしかない。それも宗家の血筋が絶えた時に、宗家入りする”血筋の分家”ではない。

御三家は紀州家と尾張家、それに水戸家である。紀州家と尾張家の官位は大納言だが、水戸家は中納言で格下の扱いを受けていた。その代わり、参勤交代はしないで江戸詰めをする特権?があった。

いつも徳川将軍と一緒に江戸にいるから、江戸の庶民は二代目の水戸黄門光圀を「天下の副将軍」と囃し立てた。だが、徳川幕府の官制には副将軍の制度はない。講談の世界では黄門様は助さん格さんを連れて、日本全国を漫遊し悪を懲らしたことになっているが、当の水戸光圀は箱根の山を越えたことがないといわれている。

いまのテレビの話は、明治時代に大阪の講釈師玉田玉知が、家臣の佐々木助三郎(助さん)と渥美格之進(格さん)と旅をする黄門様に膨らませて人気をはくした。「この印籠が目に入らぬか」は嘘話といえる。

だが、光圀は藩費を使って在野の学者を集めて「大日本史」の編纂事業に本格的に着手している。この当時は儒学が全盛の時代だが、光圀は江戸の儒者ではなくて京都の儒者を多く集めている。いわゆる「京儒」といわれる儒者で、京都の朝廷を敬い、武家政治を卑しむ尊皇思想が強い。

光圀は「もし江戸の徳川家と京の朝廷のあいだに、弓矢のことがあれば、いさぎよく弓矢を捨て、京に奉ぜよ」という秘伝を残したという。徳川宗家や紀州家、尾張家からみれば、水戸家は油断がならぬ「ご謀叛のお家筋」ということになる。

紀州家から出た将軍吉宗の時代に、将軍に子なき時には紀州家、尾張家から養子を迎えて次期将軍とする制度を広げて、一橋家、清水家、田安家からも養子を迎える「御三卿」の制度を作った。ここでも水戸家は外れている。

田安徳川家(田安家)…始祖は徳川宗武(8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家)…始祖は徳川宗尹(8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家)…始祖は徳川重好(9代将軍徳川家重の次男)

その水戸家から最後の徳川将軍となった一橋慶喜がでたのだから、歴史の彩なす不思議さを思わざるを得ない。慶喜は水戸烈公といわれた斉昭の七男。幼名を七郎麿といったが、斉昭は水戸藩を担う後継者として七郎麿を厳しく躾ている。

七郎麿を一橋徳川家の養子に入れるように斉昭に勧めたのが、「知恵勢州」といわれた老中の伊勢守阿部正弘。一橋徳川家に養子入りすれば、徳川将軍のチャンスも出てくる。十一歳だった慶喜が水戸家から一橋家の養子になったのだが、阿部正弘の読み通りに第十五代将軍に慶喜がなった。

しかし光圀以来の尊皇思想は十一歳の少年の心に根付いている。自らの手で家康以来の徳川幕府の幕をひくことになった。徳川家からみれば「水戸は代々ご謀叛のお家筋」かもしれないが、水戸の手によって歴史の歯車が一つ動いたのも事実である。

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