<< 「従軍記者」事始(3) 平井修一 | main | 「福田降ろし」が出ない理由 花岡信昭 >>
「従軍記者」事始(4) 平井修一
日露戦争を挟んだ7年間、英国婦人、エセル・ハワードは薩摩藩主の血を引く島津忠重公爵とその4人の弟の家庭教師を務めた。ハワードが初めて会ったとき忠重は14歳で、父が亡くなったために当主であったが、島津家や薩摩藩旧臣の長老たちが5人の教育のためにハワードに白羽の矢を立てた。在京の英国大使館が推薦したのだ。彼女はドイツ皇帝ウィルヘルム二世の子供の家庭教師をし終えて英国に帰国していたところを招請された。

ハワードは永田町の屋敷(今の参議院会館のあたり)で、末っ子はまだ4歳という育ち盛りの5人の若君の教育に全身全霊を注ぐのだが、日露戦争の頃をこう回顧している(「日本の思い出」)。

<我々の家は道路の角に建っていたので、目の前を戦争に関連した場面が次から次へ通り過ぎてゆくのが見られた。・・・(人力車に乗った)負傷者の行列のほかに、戦死者の葬列がほとんど毎日のように通った。・・・一番記憶に残っているのは、五月のある日曜日の午後に「初瀬」と「八洲」の両艦の士官と水兵の葬列が通ったときのことだった。日本の最高の英雄の一人である広瀬武夫中佐の葬儀が行われたが・・・彼の名誉ある戦死は多くの日本の青年に影響を与えた>

苦闘の末に日本は勝利を収めたが、報道管制を布いたためだろう、戦争中、多くの外国人特派員は前線に駆けつけることを許されなかったようで、東京で待機を余儀なくされた。特に連合艦隊が3カ月間、姿を隠したから、その間は特に秘密保持が必要だったのだろう。

外国人特派員はハワードに「何とか手を貸して前線に送り出してもらえないか」としきりに依頼した。戦場に行かなければ迫真の記事は書けない。彼等の欲求不満は高じるばかりだ。在京の各国大使館は彼らの無聊を慰めるために何度も晩餐会を開き、ハワードは記者の接待係を務めた。

<日本人は彼等の要求を断るのが辛いようだった。大変済まなかったと私に繰り返して言っていた。しかし、こういうやり方でほんの小さいニュースでも隠しておくことができたことが、結局、勝利を得た原因の一つになったことは確かである>

明治40(1907)年、ハワードは下の3人の若君を引率して朝鮮と中国へ旅行する(長男と次男は海軍兵学校で修業中と思われる)。島津家には母親がいるはずなのだが、事情があって別居していたようで、女性家庭教師を5人の男の子に付けたのは、母親代わりという意味もあったろう。ミス・ハワード(当時は独身)は見事に「勇敢で優しい母」の役割を担った。

<日本の勇敢な兵士たちがあのように雄雄しく戦い、そして死んでいった戦場の跡を訪ねることによって、子供たちに自分自身がいかに取るに足りない存在であるかの意識に目覚めさせ、彼らの前途に横たわる無限の可能性について心構えをする必要があることを感じさせるとともに、天皇陛下と祖国と同胞へ奉仕すべき義務を負っていることを深く心に刻み付けるのが、この旅の目的であった>

貴族の若君を衛生面でも不安な土地に連れて行くのはどうかという反対があった。

<私はこの旅行が子供たちの人格形成にとって絶対必要であるとの確信を抱いており、正義は常に勝つという強い信念を持って、これらの忠告になんら注意を払わなかった>

この毅然とした信念、不屈の闘志、子供への捨て身の愛情には頭が下がる。やはり、母は強し。(つづく)

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(5月2日現在1814本)
| 平井修一 | 15:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 15:33 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/821471
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< October 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE