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刺青は遠くなりにけり 平井修一
刺青(入れ墨、あるいはしせい)。最後に見たのは近所の銭湯で、もう10年も前だ。年輩の人で、皮膚がたるんでいたから、どうも見栄えはよくなかった。

明治の頃まで大工さんなど外職(室内で作業する職人は居職=いじょく)の職人の多くは刺青をしていたというが、今は見かけなくなった。小生が鳶職をしていた昭和47(1972)年頃には建築現場で刺青をしていたのは2人くらいしかいなくて、その1人は小生の親方だった。

左の二の腕に彫ってあった。「若い頃いたずらしたのさ」と苦笑する。途中で止めてしまったのはヤクザから足を洗ったためで、それは結構なことだが、未完成の刺青はお世辞にもかっこいいとは言えない。

本人もそれを知っていたから夏でも長袖シャツを着ていた。半袖のときは包帯で隠していた。

今ではプールも銭湯もゴルフも「刺青お断り」で、刺青は市民権を喪失してしまったようだ。「タトゥー」と言いかえても、堅気はまず刺青はしないし、顰蹙を買うから見せびらかす場もない。それがいいのか悪いのか。

支那の正史で一番古いのは3世紀に書かれた「三国志」で、その中の「魏志倭人伝」によれば日本人はおそらく世界有数の刺青愛好家であった。「男子は大小となく皆、黥(黒偏に京)面文身す」とある。現代語訳ではこうある。

<男子は大小の区別なく、みな顔や体に入れ墨する。・・・髪を断ち、体に入れ墨して蛟(虫偏に交)竜の害を避ける(鮫などから身を守る)。いま倭の水人は、好んでもぐって魚やハマグリを捕え、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害をはらう。

後に入れ墨は飾りとなる。諸国の入れ墨はおのおの異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある>

日本人のDNAにあったから江戸から明治まで刺青は庶民の人気を集めたのだろう。遠山の金さんは「桜吹雪」だそうだが本当か。そういえば谷崎潤一郎には「刺青」という作品があったので、女性でも刺青を好む人は玄人には珍しくはなかったかもしれない。

明治の後期に大工修業をした竹田米吉翁は「職人」という本を遺しているが、その父親は江戸時代からの大工で、文身(ぶんしん、入れ墨)全盛時代をこう伝えている。

<神田っ児の代表は職人だった。神田祭が江戸の祭礼の華といわれるのも・・・勇み肌の活発な土地っ児の気風とによるだろう。・・・町の有力者が裃を着て威儀をただし、若い衆たちはおのおの自慢の文身を見せ、さらしの褌一本という裸姿で練り歩く。これが江戸の祭りだった。・・・

職人の文身は、俗にいう倶梨伽羅紋々で、これは職人といっても、仕事師(鳶)や大工の間で特に盛んで、みな競ってこの文身をやったらしい。

この文身について、昔の職人には相当の心がけがあった。「文身はむやみに他人に見せるものではない」とは父のしばしば口にした言葉である。祭りで裸になって文身を競うとか、喧嘩のときなどに勢いをつけ、文身を誇示するために肌脱ぎになる以外、普段は肌襦袢にかくれるように控え目にしておくべきだというのである。

しかも喧嘩の場合、いったん肌をぬいで彫り物を見せたからには、顔を立ててもらえぬ限り後へはひかぬという気概があった。それは侍が刀の鯉口を切るに等しかった>

江戸も明治も遠くなりにけりだが、入れ墨は一人前の職人だけの特権、極道は禁止とすれば入れ墨文化・芸術は復活するかもしれない夢想している。

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