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天風門下だった園田直 渡部亮次郎
4月2日は私が大臣秘書官として仕えた元外務大臣園田直(そのだ すなお)の祥月命日である。昭和59(1984)年のこの日の朝、糖尿病による腎不全のため慶応病院で死去した。まだ70歳だった。インスリン治療をしていれば後20年は生きられたのに。惜しい人だった。

ところで園田氏は生涯に結婚を3度している。政界では松谷天光光(てんこうこう)との「白亜の恋」で2度目の結婚と思っている人が多かったが、実は、その時の先妻が2度目。日中戦争に志願する以前、京都で山口県出身の女性を入籍、男の子をもうけている。直明(故人)といった。

母子をを天草の両親に預けて何をしたかというと、中国出奔。「狭い日本に住み飽きた。支那にゃ4億の民がある」と青年たちが「中国浪人」に憧れた時代。妻は郷里に出奔。

戦後、代議士になったと聞いた元妻が議員会館に訪ねてきたが面会を拒否。それっきり消息は途絶えた。このため直明氏は死ぬまで母を恋しがり、アルコール依存症になった、といわれた。父より早く死んだ。

園田氏が天風会に入門したのは衆院議員当選9回ながら未入閣だった昭和39年ごろ。衆議院副議長だった。当時、総理大臣佐藤栄作氏は、自民党永年の懸案だった紀元節の復活に腐心、策を探っていた。

それを知った園田氏は野党第1党(2党は民社党で公明党は衆院に未進出)の国対委員長石橋政嗣(後に委員長)と組み、「建国記念日」に「の」を入れて「建国記念の日」とし、いわば換骨奪胎を図る形で解決。政界に「異能政治家」と注目されるきっかけとなった。

中身は聞き出したことは無いが、この間、しばしば中村天風氏に教えを乞うていた事は知っている。園田副議長担当記者だった私も「合宿」に誘われた事もあるが、断った。精神修養とか宗教などには興味が湧かない。

断ったといえば「合気道」への入門も断った。私の中学、高校時代は進駐軍の占領時代で、剣道も柔道も禁止されていた時期。だから武道には一切近付かなかった。汗を流して同性と取っ組み合いをするとは、考えただけで身震いがした。

建国記念の日法案の成立を「手土産」に第2次佐藤内閣に厚生大臣としてやっと初入閣。選挙区でもある熊本県内での水俣病を国として初めて公害病に認定するなど佐藤内閣の「好一点」といわれたりしたが、財界の猛反発のため、次の入閣まで10年間「冷や飯」を食う。

そもそも中村天風とは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用する。

<中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 ―1968年12月1日)は日本初のヨーガ行者。天風会を創始し、心身統一法を広めた。本名は中村三郎。

1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。父は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。

福岡市の親戚の家に預けられ、福岡の名門校、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。家伝の随変流の剣術と居合も修行した。幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。

柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。

1904年(明治37年)3月21日コサック兵に捕われた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。

イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。

1911年日本への帰国の途上、カイロでインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガの麓で2年半修行する。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。その謝礼として財産を得た。東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。街頭にて教えを説き始める。政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。

1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。戦後の1962年、国の認可により「財団法人天風会」となる。1968年12月1日死去。享年92。

「笑顔は万言に勝るインターナショナル・サインである」という言葉を残している。

中村天風に指導を受けた者のうちの著名人。

東郷平八郎 後藤新平 原敬 西竹一 双葉山 定次 山本五十六 浅野総一郎 杉浦重剛 石川素童 山本英輔 尾崎行雄 三島徳七 重宗雄三 左藤義詮 倉田主税 駒形作次 飯田清三 村田省蔵  丹羽喬四郎 松本幸四郎 北村西望 三遊亭円生 大佛次郎 園田直 堀越二郎

松田権六 内海倫 佐々木義武 越後正一 植芝吉祥丸 宇野千代 広岡達朗 安武貞雄 岩松三郎 杉山彦一 島中俊次 素野福次郎 松下幸之助 稲盛和夫 ロックフェラー3世>

植芝吉祥丸とは「合気道」の創始者。園田氏を天風氏に引き合わせたのは植芝氏と思われる。園田氏は直弟子で合気道8段だった。2008・04・01

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