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チベット・ホロコースト50年(下) 伊勢雅臣
■1.法王の脱出■
1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノルブリンカ宮殿を包囲した。その日、法王は中共軍司令部での演劇に招待されていた。しかも中共側は法王が護衛なしで来ることを要求していたのである。今まで東部チベットで、高僧が中共軍司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄されるケースが4回もあった。群衆は、法王を中共軍の手に渡すまいと決意していた。

法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、訪問に反対する「民衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告げた。中共軍の将軍たちは激高して叫んだ。

いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事件は叛乱である。これが決裂点である。われわれは今こそ行動にでるであろう。だから覚悟しろ。

群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。3月17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の近くに落ちた。法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の対立がいや増すだけだと考え、国外脱出の決意を固めた。群衆の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそかに宮殿を脱出した。

■2.中共軍「反乱を鎮圧」■
法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2時から、宮殿に向け、一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1万から1万5千人のチベット人が殺された。宮殿の内外は死体で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。

中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4000人を逮捕した。中共軍の内部資料によると、10月までに、ラサおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人を殺害したという。

3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット政府の解散と、その職権を「チベット自治区準備委員会」に移すことを発表した。そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されている間、パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。

パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チベットに現れたと信ぜられ、法王に次ぐ宗教的権威を認められてきたが、世俗的権力はなかった。このパンチョン・ラマも、中国の傀儡にはならず、89年には「チベットは中国から得たものよりも、失ったものの方が大きい」という歴史的な声明を発表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。

■3.ヒマラヤ超え■
世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、その安否を気遣っている間、法王の一行約100人は、200名の兵士、ゲリラ兵に守られて、徒歩でラサから道もない広大な山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断して、インドへ向かっていた。

国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋をきわめた。そうして、つづく二,三日というもの、大吹雪、雪に反射するぎらぎらする光、それから滝のようにおちる激しい雨などの異常な連続によって、わたくしたちは悩まされた。・・・

非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が凍りついた。・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸びた人々もかなりあったが、その人々の口ひげには、氷がいっぱいついた。

それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかったから、暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけであった。

途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュースを聞き、法王は同行していた人々で臨時政府を作り、その宣言のコピーをチベット全土に送った。

法王の一行が、正式な許可を得て、インドに入国すると、町や村では、心からの親切な歓迎をした。ネール首相も、電報で歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。さらに全世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえていた。

法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人が、同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。途中で行き倒れになった人数は数知れない。

■4.アデの悲しみ■
アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。常に囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、アデは耐え抜いた。1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に移った百人の女囚のうち、3年後に生き残っていたのはアデを含め、わずか4人であった。

21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許された。バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、通りにたくさんの中国人がいることに驚かされた。標識はすべて中国語で書かれていた。実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収されていた。

森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になるまで、薬草や花がやみくもに採取されていることがわかった。私はその荒廃ぶりに圧倒された。生命あるものに対して、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、いったいどういうことなのか理解できなかった。

私の若いころにはとても活気に満ちていた、カルナン僧院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破壊され、略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前建っていたところには、野生の灌木が生い茂っていた。

アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。二人の兄は人民裁判で暴行され殺された。最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、発狂して死んだ。

息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、母親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、そうしているうちに、川に落ちて死んでしまったという。

アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンドは、アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。アデは22歳になっていた娘を初めて見た。娘は近く結婚する事になっており、アデは幸せな生活を送って欲しいと、自分の悲惨な過去についてはあまり話さなかった。

私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ(収容所)に戻る準備を始めた。またバスに乗り、カンゼを通り過ぎるとき私が考えていたのは、「もう何も残っていない」ということだけだった。苦痛、別離、そして失ってしまった21年間がすべて心の中にこみあげてくるような気がした。それは本当に耐え難いものだった。そして、いまの私には何も残されていなかった。

アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。アデはその後、インドに脱出し、ダライ・ラマ法王がチベット亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。

■5.収奪された国土■
第二次大戦後、アジアやアフリカの民族が次々と独立していく中で、チベット民族はこうして、唯一、植民地に転落した。

チベットは、ヨーロッパ共同体に匹敵する広大な領土を持っていたが、その東部は分割されて、四川省、雲南省、甘粛省などに編入された。北部のアムド地区は青海省とされた。たとえば、アデの生まれ育ったカンゼ地区は、四川省甘孜(カンゼ)チベット族自治州とされている。細かく分割して、周囲の省の少数民族とされたのである。残るチベット自治区の面積は、約半分にすぎない。

1949年当時のチベットの森林面積は22万平方kmであったが、中共軍による乱伐で、1985年には13.4万平方kmとほぼ半減した。中共軍は旧国民党系の囚人や、チベット人を使って、原始林へのアクセス道路を切り開き、伐採した木材を中国本土に送っている。

チベットは、インドや東南アジアを望む戦略的地域である。中国はここに90基の核弾頭を配備している。アムド地区の中国西北核兵器研究所は、その核廃棄物をきわめてずさんな方法でチベット高原に廃棄したと伝えられている。

■6.生活と文化の破壊■
チベット亡命政府は、1949年から79年の30年間に死亡したチベット人は、120万人をくだらないと発表している。その内訳は、拷問17万3千人、死刑15万7千人、戦闘43万3千人、飢餓34万3千人、自殺9千人、傷害致死9万3千人である。侵略以前のチベット人口が600万人なので、5人に一人が殺された事になる。チベット人の家庭で、家族が一人も投獄、殺害されていない家を見つけるのは難しい。

仏教国家チベットには、6,259もの僧院、尼僧院があったのが、1976年に残っていたのは、わずか8つに過ぎない。仏像や装飾品などは、ことごとく中国本土に持ち去られた。59万人いた僧、尼僧などのうち、11万人強が拷問死し、25万人以上が還俗を強制された。

僧院に付随して学校があったのだが、それらも一緒に破壊された。チベットの12歳以上の文盲率は、中国側の発表でも、74.8%であり、中国本土の31.9%の2倍以上となっている。

中国政府は、産児制限や、中絶・不妊手術により、チベット人の人口抑制を図っている。その一方で、中国人の移住を数々の優遇策によって奨励した。その結果、チベット人口600万人に対して、チベット全土に住む中国人は750万人と見積もられている。

チベットは、中国の過剰な人口の捌け口とされ、チベット人は自らの国土においても、少数・劣等民族とされてしまったのである。

■7.ダライ・ラマ法王の祈り■
ダライ・ラマ法王の働きかけで、国連総会は1959年、61年、65年の三度、「チベット人民の基本的人権と、その独特の文化的ならびに宗教的生活を、尊敬することを要求する」と決議している。

近年、多くの国の議会がチベットの人権を尊重するよう中国政府に求める決議を行ってきた。たとえば欧州議会(1987-90,4回)、旧西ドイツ(1987)、イタリア(1989)、オーストラリア(1990,1991)など。アメリカの上下院は10回以上の決議を行っている。

1989年には、ノーベル平和賞が法王に授与された。ノルウェーのオスロ大学での受賞記念講演では、法王は「平和は私達一人一人の内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々とも平和を分かち合うことができます。」との信念を披瀝し、「非暴力による平和の追求」が世界の一大潮流になっていることを指摘した。

89年6月の第2次天安門事件において、「中国で同じような変化をもたらそうとした勇気ある人々の努力は、・・・暴力でうち砕かれてしまいました。」しかし中国の若者達が「権力は銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、非暴力を選んだことを、法王は高く評価した。

チベット高原全体を、人間と自然が調和して、自由に平和に暮らして行ける保護区にしようというのが、私の夢です。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自分自身の内にある平和の真の意味を探し求める地区としたいのです。

として、チベットの非武装、非核化、自然保護、そして国際人権保護機関の設置を提案した。法王は演説を次の祈りで締めくくった。

世界に苦しみがあり、
生き物が残っている限りは、
私も、残ります。
世界の苦難を消すために

ダライ・ラマ14世の肉体は滅びても、その魂は15世として、この世に戻ってくる。世界の苦難を消すために。チベット仏教の輪廻転生信仰は、世代を越えて受け継がれる人類の「内なる平和への意志」の象徴とも言えよう。

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