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プライバシー訴訟 渡部亮次郎
プライバシーとは、個人の私生活に関する事柄(私事)、およびそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいうと言われなくとも今やプライバシーは日本語同然、誰知らぬ者の無い「日本語」だ。

しかし、「日本語」としては新しい存在であり、超著名な作家が元東京都知事候補に訴えられて、しかも敗訴するまでは、日本人の殆どが無視してきた根源的な権利だったのである。

つまり自決した作家三島由紀夫が、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告であり、日本人が、人間に、そんな権利があることを知った始まりだった。それが1961(昭和36)年3月15日に訴えられたプライバシー裁判だった。

英単語「Privacy」をカタカナ表記したもので、「私事権」と訳されることもある。

日本国憲法には明文規定はないが、第13条(個人の尊重)によって保障されると解されている。日本では「宴のあと」事件の際にプライバシーという言葉が使われたことから注目され、人格権として認められるようになった。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社の新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起したのである。

有田八郎(ありた はちろう、1884年9月21日―1965年3月4日)は新潟県佐渡郡真野町(現在の佐渡市)出身の男性外交官、政治家である。息子圭輔も外交官になり園田直外相当時(1972年から74年ごろ)は父同様、外務事務次官だった。

八郎は山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。

戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は戦前と対照的に革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。

<原告の主張
1.被告平岡公威は三島由紀夫のペンネームをもつ小説家であるが、雑誌「中央公論」の昭和35年1月号から同年10月号にわたって「宴のあと」と題する小説を連載執筆したのち、被告佐藤亮一を発行者、被告新潮社を発行所としてこれを1冊にまとめた同一題名の小説の刊行を許諾し、被告新潮社は昭和35年11月15日付で右初版15,000部以上を刊行しその後も重版を刊行発売している。

2.「宴のあと」の梗概は『「野口雄賢」という妻を失った独身の60才を過ぎた外交官出身の男でかつて小国の公使をつとめたことがあり、外務大臣にもなり戦後衆議院議員に立候補して当選したが2度目は落選し、「革新党」の顧問となっていたが同党から推されて東京都知事選挙に立候補した。

この野口は都知事選挙の有力候補であつたので「保守党」の対立候補の擁立は人選難に陥り、現職の都知事は辞めそうでなかなか辞めない有様であったところ、野口の妻「福沢かづ」の経歴、行状を誹謗した怪文書「野口雄賢夫人伝 山漁人著」がばらまかれたため野口は山の手方面で人気をおとし、また選挙資金を調達するため料亭「雪後庵」を売却することも「佐伯首相」に妨害されて野口は選挙の終盤戦で資金がなくなり、反対に保守派からは買収の金が流れ出し、

さらに投票日の前日に「野口雄賢危篤」のビラがまかれたりして結局都知事選挙は「敵の謀略と金の勝利」に帰し「20万ちかく引き離され」て野口は惜敗した。野口の妻福沢かづは少女時代から「苦労のかずかず」を重ねてきた女で著名な料亭「雪後庵」の女将であったが野口と結ばれ妻の座にすわり都知事選挙のために野口にかくれて「雪後庵」を抵当に入れて資金をつくるべく奔走し同料亭は休業するに至った。

しかし怪文書がばらまかれ選挙が野口の敗北に終ったのち野口に背いて「雪後庵」を再開するため野口とは遂に離婚した。』というのである。

3.(一) このように「宴のあと」に登場してくる主要人物には「野口雄賢」と「福沢かづ」という仮名が用いられているけれども以下に指摘するようにこの小説が一般読者に与える印象としては「野口雄賢」が原告、「福沢かづ」が畔上輝井をさしていることは明らかであり、その効果は原告及び畔上輝井の実名を挙げた場合と異らない。

(中略)
7.このように「宴のあと」は原告の私生活をほしいままにのぞき見し、これを公表したものでありこれによって原告は平安な余生を送ろうと一途に念じていた一身上に堪えがたい精神的苦痛を感じた。

そこで「宴のあと」の作者、発行者、発売者である被告等は共同して原告に精神的苦痛を与えたものとして、原告に対し損害を賠償すべき義務があるが、原告の損害を填補するには被告等が共同で請求の趣旨第1項記載の謝罪広告を掲載し、且つ慰藉料として少くとも金100万円を支払わなければならない。

よって被告等に対し共同して請求の趣旨記載のとおりの謝罪広告および慰藉料ならびに後者に対する本件訴状各送達の後である昭和36年3月26日からその支払済まで年5分の割合による民法所定の遅延損害金の支払を求める。>

裁判所は原告の主張を全面的に認め、「プライバシー」は流行語にもなり日本人に定着した。画期的な裁判だったのである。

裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・03・23

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