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平将門の夢の跡 古沢襄
”春一番”どころか真冬に後戻りしたような寒風が吹き荒んだので、中村紀介氏と一緒に守谷城の「縄張り図」会に参加することが出来なかった。感染症に罹りやすい骨髄腫患者というのは行動を制約されるので厄介。

中村氏も突風に悩まされ、マイカーのハンドルをとられる苦労をしたらしい。それでも守谷城趾の貴重な写真を撮影して送って頂いた。「縄張り図」の作成は、日をあらためて再調査すると知らせてきた。

「縄張り図」は城趾をコツコツと歩いて、磁石を片手に手書きで作図して完成する。気の遠くなるようなこまめな仕事である。さすが漫画家・中村篤九氏の遺児だと感心しながら、これまで作成した関東のいくつかの古城の「縄張り図」を見せて貰った。好きでなければ、出来ない仕事。



守谷城は平将門が築き、その子孫である相馬氏の居城という説が地元では広く信じられている。まさに伝説の城だが、築城年代も定かでない。古文献では「千葉大系図」に千葉師常の曾孫・胤継が守谷城に居すとある。また胤継の孫・胤親が「守屋」姓を名乗った。(徳島本千葉系図)

それ以前のことは定かではない。幕末に赤松宗旦が「利根川図志」を著したが、その中に「平将門旧祉」として守谷城を将門の王宮として紹介している。天慶年間に関東を制覇し、親皇を称した将門が、この地に王宮を造ったという。王宮というのは城塞とは違う。守谷の土地にこだわったといわれる将門の母や娘の館があったのであろうか。確証はないがそんな気がする。

将門の生涯を描いた作家の童門冬二氏は「湖水の疾風」(上)で、「いま将門たちが住んでいるところは、相馬地方の守谷というところだ。下妻から取手に向かう道の傍らにある」(76ページ)と書いた。将門は相馬小二郎とも名乗っている。

この頃の守谷の地は湿地帯の沼に覆われ、王宮どころではない。将門一族以外の同族たちは豊かな土地を占めている。だが湿地帯で兵馬の訓練をしたことが、後の将門軍団の強味となって、関東の兵を圧倒している。



間もなく将門は本拠地を守谷から石井(いわい)に移し守谷の砦は弟に任せている。守谷小学校の片隅に「平将門城址」の石碑が立っていて、往事をしのぶよすがとなっている。当時は守谷旧市街地は沼の底にあったといわれている。

現在の守谷城の遺構は、台地先端部の戦国期の遺構群と、台地基部の近世に拡張された部分に大きく分かれている。大規模な遺構群は規模の大きさからみて、将門の時代よりも後のものであろう。



沼に囲まれた要害の地に築かれた守谷城だが、江戸時代に廃城となり、沼地も埋めたてられ住宅地と水田になった。僅かに守谷小学校前の土塁、校内には船着場の跡が残っている程度。

むしろ深い空堀によって4つの曲輪がはっきりと残っている古城の方が見応えがある。一の曲輪と二の曲輪との間の空堀と土塁は見事である。一の曲輪下の帯曲輪からは船着場へと降りることが出来るが、守谷城が沼に浮かぶ”浮き城”だったことを示している。



中村氏は「守谷城は説明板にある通り何期かにわけ拡張されたようですが先端部に位置する三つの郭は 遺構がよく残っています。外郭ラインを含めると守谷の駅のほうまでが城内になりそうです」と言っていた。つくばエクスプレスが開通し、駅前の開発も急ピッチで進んでいる。将門の夢の跡も時代の波に洗われて彼方に去ろうとしている。

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