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泥鰌あれこれ 渡部亮次郎
「江戸浅草寺の南方、駒形堂付近の地区名。今、駒形1〜2丁目(東京都台東区)・駒形橋などの名称が残る。こまがた」と広辞苑が説明する駒形名物は「どぜう」と旧仮名?の看板を掲げる泥鰌(どじょう)料理店である。

観光バスも停まるらしいから東京都民ならずとも客が全国から来るわけだが、関西出身の友人によると昔から食糧の豊富だった関西では泥鰌を食べる習慣が無かったそうだ。そういえば大阪に泥鰌料理店は無かった。今は知らないが。

東京では多くの泥鰌料理店などでは「どぜう」と看板に書いているが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しいとされている。(大槻文彦によれば高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから、「どぢょう」としたという)。

しかし、江戸時代の商人が、「どぢやう」が四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれている。

ウイキペディアによると泥鰌は東京近辺で好まれるため、産地も利根川水系で取れたものが大部分を占めていたが、韓国や中国などからの輸入が増えつつあるそうだ。

泥鰌は農民の動物性食品として重要なものであった。泥鰌を捕るには、夜間灯火を点じて水面を照らし水中に静止しているものをすくい取り,または鋭い針を植えた棒などで突いてとった。

郷里の秋田では水田の泥鰌を竹を細く割って編んだ筌(うけ)(田舎では「どう」といった)を小流に据えて捕る漁法が普通で、夕方、据えて早朝引き揚げるのだったが、上手な兄を真似ても私のには1匹も入らなかった。止めた。

泥鰌は以前は「田螺(たにし)と共に各地の水田などから多量に生産、漁獲されたが、第2次大戦後に農薬の使用が盛んになるにつれ、1957(昭和32)年から63(昭和38)年ごろまで天然産泥鰌の産額が著しく減少した。

そこで各地で農家の副業を兼ねて泥鰌の養殖が試みられた。一方、稲田などに低毒性の農薬を使用するようになって、天然泥鰌の生産はやや回復した。しかし、現在では生産が消費に追いつかず活魚で輸入している。

大ぶりのものは開いて(さき)頭と内臓を取り、小さいものはそのまま(まる)で、ネギ、ゴボウとともに割下で煮て卵で閉じた柳川鍋とされることが多い。卵で閉じないものはどぜう鍋と呼ばれる。

金沢では、土用の丑の日に鰻の蒲焼きの代わりに泥鰌の蒲焼きを食べる風習がある。しかし最近は、泥鰌の蒲焼きの価格が高騰したことと泥鰌の蒲焼きの苦味を嫌って他の地域と同様ウナギの蒲焼きを食べることが多い。とはいえ、今でも、根強い泥鰌の蒲焼きのファンはいる。

兄は無類の泥鰌好き。母はアルミの鍋に食用油を垂らして泥鰌を入れ、蓋をしてから火に掛けた。泥鰌は地獄だ。物凄い勢いで跳ねる。それでも蓋を押さえているとやがて煮える。それから葱や豆腐を入れて醤油で味付けしていた。戦争中、醤油が売ってなくなると味噌で味付けしていた。

このやり方が似ているものに「地獄鍋」がある。生きた泥鰌と豆腐をいっしょに鍋に入れて、徐々に加熱してゆくと、熱さを逃れようとして、豆腐の中にドジョウが逃げ込む。

しかし結局は加熱されて、泥鰌入りの豆腐ができあがる。これに味を付けて食べるのが地獄鍋である。実際には、頭を突っ込む程度で、逃げ込むまでには至らないことも多いとか。中国にも同様の料理があるそうだ。

中国ではまた、泥鰌を「水中人参(水中の薬用人参)」と称する事もあるほど、薬膳に用いることも多い。泥抜きしたドジョウを、加熱乾燥し、破砕した粉末を食餌療法に用いる例もある。解毒作用があるとされ、A型肝炎の回復を早めたり、腫瘍の予防になるともいわれる。

アメリカ,カナダでは Oriental weatherfish,イギリスではloach(ドジョウ科の他種を含む)という。

日本のほぼ全土,台湾,朝鮮半島およびアジア大陸の東部一帯に広く分布。平野部の浅い池,沼,水田,水路などの泥底に棲む。よく底に潜り,とくに冬季にはわずかに湿気のある泥底に潜って越年するものもある。

泥鰌は日本では古くから食べられていたはずであるが,室町時代になるまで文献に名を見ることができない。浅井了意の《東海道名所記》を見ると,牛の皮を切って馬糞とかきまぜ,水に浸しておくと泥鰌になるという俗説があったようで,こんなことから食用がいやしまれていた。関西で食べないのは当然だ。

ところが江戸時代になると,《雍州府志》(1682)が〈甚味甘美〉,《本朝食鑑》(1697)が〈味最鮮美〉というように,たいへん美味なものと認められるようになっていた。

食べ方としては,《料理物語》(1643)が〈鰌、すし〉と記しているように,味噌汁やなれ寿司にしていたようだ。

現在,泥鰌料理でもっとも好まれているのは柳川鍋。丸のまま(まる)の泥鰌汁や泥鰌鍋をたしなむ人は少なくなっている。その柳川なべは骨抜き泥鰌(さき)を使うが,裂いて頭と内臓と骨を除くという調理法に気がついたのは江戸時代も後期に入ってからのことであった。

なお,江戸時代には泥鰌に強精効果があると信じられていたようで,《好色一代男》などの西鶴の作品その他にその例を見ることができる。

和歌山出身の畏友前田一郎氏は郷里では食べ物とは知らずに育った。東京に出て初めて食べた。酒の勢いで。私とも泥鰌屋へ一緒した。さすが食通と感服したものだが、那須へ引っ込んでからは食べる事が無いそうだ。

「柳の下にいつも泥鰌はおらぬ」という諺は,偶然得た幸運を再び同じ方法で得ることができるとは限らないという意味だが、泥鰌の生息する場所が柳の育っている湿田地域に多かったことから出たものであろう。(参考:世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

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