<< 台湾総選挙で民進党は惨敗? 宮崎正弘 | main | 意地悪爺さんの楽しみ 古沢襄 >>
加瀬俊一氏の再登場 渡部亮次郎
日本の国連加盟は1956(昭和31)年12月18日。初代国連大使は戦争中、歴代外務大臣の秘書官を務め続けた加瀬俊一(かせ としかず)氏。敗戦によって逼塞していた加瀬氏の再登場は脚光を浴びた。

敗戦国日本の国連加盟はソヴィエトとの国交回復の結果であった。国交の無いソヴィエトが日本の加盟に反対していたからである。

しかし1956年10月19日、モスクワで、日本首席全権鳩山一郎首相、全権河野一郎農相ら、ソヴィエト側首席全権ブルガーニン、全権シェピーロフによって日ソ共同宣言が調印され、日ソ間の国交が回復したのだった。筆者はまだ大学2年生だった。

国連は実際には第2次大戦戦勝国だけの組織だから、何も加盟するに無理をする事はなかったという論がある。特に民主党の小沢一郎代表が国連中心主義から自衛隊の海外派遣を国連決議抜きではまかり成らんと言い出すに及んで、国連は却って影を薄くしている。

しかし当時は、国連加盟こそは国際社会への復帰の象徴といわれ加瀬俊一氏らは懸命の工作に奔走したもののようだ。

まず、この年の12月12日の国連安保理事会、ペルー提案の「日本の国連加盟に関する決議案」が採択され、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、国民政府(中国)、オーストラリア、ベルギー、キューバ、イラン、ペルー、ユーゴノ11か国による全会一致の賛成を得て「日本の国連加盟を勧告する」ことが決議された。

これを承けて、18日10恃55分から国連総会が開かれ、安保理で採択された日本加盟案を採決したが、51カ国共同提案の日本加盟案は77カ国(ハンガリーと南アフリカ連邦は欠席)全会一致異議無く可決された。

これで日本は80番目の加盟国となり、戦後11年にして、漸く国際社会に復帰したのであった。参照「昭和史事典」講談社

なお、国連加盟時の国連代表部特命全権大使という事で、加瀬が初代の特命全権大使と誤解されている場合もあるが、実際の初代特命全権大使は加瀬の前任の沢田廉三である(「ウィキペディア」)。

国連代表部特命全権大使は国連加盟前から存在したからである。だが国連加盟後の初代大使は加瀬俊一に他ならない。

加瀬俊一(1903年=明治36年=1月12日―2004年=平成16年=5月21日)は第2次世界大戦前後に活躍した日本の外交官。国際連合加盟後初の国際連合代表部特命全権大使などを歴任した。

終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一 (しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い彼と区別するため「小加瀬」と俗称されていた。

1903年(明治36年)に千葉県で、最年少代議士・弁護士・中央大副学長であった父・喜逸の五男として生まれ、東京の芝中学校に一時在籍したのち、東京府立第一中学校(日比谷高校)に入学。東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。

東京商科大本科在学中に高等試験外交科試験に合格。1925年(大正14年)に外務省に入省し、東京商科大学本科を中退した。1926年にアメリカへ国費留学し、アメリカ東海岸の名門大学の1つであるアマースト大学とハーバード大学大学院で学んだ。

その後、外務大臣秘書官、通商局3課長、アメリカ局1課長、政務局6課長、大東亜大臣秘書官、政務局5課長、情報局第3部長、情報局報道部長などを歴任し、この際に東郷平八郎海軍元帥の通訳を務めたこともあった。

また、1933年(昭和8年)の国際連盟脱退時には松岡洋右外相に随行した他、1935年(昭和10年)にロンドン海軍軍縮会議へ参加した。

1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)までは駐イギリス日本大使館に1等書記官として駐在し、首相になる前のウィンストン・チャーチルやロイド・ジョージと親交を持った。

また、その後の松岡外務大臣秘書官時代の1941年(昭和16年)4月には、ソヴィエト連邦のモスクワで行われた日ソ中立条約の締結時に随行し、ヨシフ・スターリンやヴャチェスラフ・モロトフとの交渉にも関わっている。

アメリカで教育を受け、さらに駐イギリス日本大使館への駐在経験もあったことから高い英語力を持ち、幣原喜重郎や吉田茂と近い親英米派として知られた。

1941年12月の日本と連合国との開戦時には、東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局6課(北米担当)課長であった。

第2次世界大戦終結時の1945年(昭和20年)9月2日に連合軍の戦艦ミズーリ上で行われた降伏調印には、重光葵外相ら全権団に随行し隻脚重光を艦上に担ぎ上げた。同年には報道局報道部長等を経て外務省参与に就任した。

その後、1955年(昭和30年)4月に行われたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の政府代表特命全権大使を務めたあと、同年から国際連合代表部特命全権大使。

1958年(昭和33年)から初代駐ユーゴスラビア特命全権大使などを務める。国連への加盟に尽力し、国連代表部特命全権大使就任の翌年である1956年(昭和31年)に、日本の国連加盟が実現した。

1960年(昭和35年)に退官し、外務省顧問等を歴任。吉田茂、佐藤栄作、中曽根康弘の各内閣で首相顧問を務める。佐藤栄作のノーベル平和賞受賞にも尽力し、後に佐藤は「今回の受賞のかげに加瀬君の努力のある事を忘れるわけにはゆかぬ」と『佐藤榮作日記』で述べている。

外務省退官後は鹿島出版会会長、京都外国語大学教授等を歴任し、外交評論家として数多くの著作を執筆した。松岡、東郷、重光、吉田といった第2次世界大戦前後の歴代外務大臣の側近であった加瀬の証言は、大戦前後の日本外交を知る上で貴重なものとなった。

また、保守・右派系の国民運動・政治団体である日本を守る国民会議(現日本会議)議長も務めた。2004年(平成14年)に神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年101。死の直前までフランス語を学んでいた。

妻寿満子は元日本興業銀行総裁の小野英二郎の娘。外交評論家でオノ・ヨーコの従弟の加瀬英明は息子。参照:「ウィキペディア』文中敬称略。2007・12・18

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(12月9日現在1294本)
           http://www.kajika.net/blog.html

| - | 17:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







スポンサーサイト
| - | 17:27 | - | - | pookmark |







コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://kajikablog.jugem.jp/trackback/730704
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< December 2019 >>

SEARCH

SELECTED ENTRIES

RECENT COMMENT

CATEGORIES

ARCHIVES

LINKS

PROFILE