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バア「風紋」をめぐる人間模様(2) 古沢襄
林倭衛・・・作家の有島生馬氏が回想記を遺しているが、零落した士族の次男を父に持ち、小学校を出ただけで、二科会展で画壇に登場し、やがてフランスに渡り、モンパルナスに近い安アパートに住んでルーブル美術館に通って西欧美術にひたった。明治二十八年六月一日に上田に生まれている。聖子さんは長女。

「出獄の日の0氏」は林倭衛が大正八年の第六回二科展に出品した作品で、アナーキスト大杉栄の肖像画だが、保釈中のアナーキストの肖像が、公衆の前に展示されるのは問題があるという当局の命令によって、出品されなかったいわく付きの作品。大正末期から昭和初期にかけて社会主義の影響を受けた前衛芸術が一世を風靡したが、それはまたファシズムの弾圧を受ける前触れともなった。

この肖像画は、その後、長野県出身で内務省警保局長だった唐沢俊樹氏の秘蔵画となった。アナーキスト・林倭衛氏と警保局長の奇妙な取り合わせだが、親交があって、この問題作を譲り受けている。しかし、二・二六事件後、軍部から追及されることを怖れた唐沢家から、林家に戻され、アトリエの奥深く隠された。日の目を見たのは、戦後である。

「出獄の日の0氏」の事件は、皮肉なことに新進画家・林倭衛の名前を画壇ジャーナリズムに広げることになった。林倭衛は太平洋戦争の末期に四十九歳でこの世を去ったが、その作品は今日でも愛好家の間で秘蔵画として高い評価を得ている。

残念なことは、晩年の傑作五十点が東京大空襲の被害を受けて灰燼に帰したことだが、信濃美術館の「林倭衛回顧展」には六十数点が出品された。東京・銀座でも「林倭衛回顧展」が開かれている。

風紋の出来事以来、私も林倭衛の絵画に接する機会が多くなり、四十点ほどの作品に触れたが、「フランス風景」「橋のある風景」「パリ郊外」など渡仏時代の風景画に惹かれる。晩年の「暮色」は妙高山の風景画だが、ひきこまれるような妖しい魅力を持った作品である。

林倭衛の魅力は作品もさることながら、その生きざまに人を惹きつけて放さないものがある。一九六八年にベルンで開かれた平和自由同盟の会合で、バクーニンは自由を否定する共産主義と決別し、アナーキズム宣言を行うが、林倭衛氏はアナーキズム運動に情熱を傾け、大正三年にはバクニーンの肖像「サンジカリスト」を第三回二科展に出品している。大杉栄との交友もアナーキズム運動を通した共感が根底にある。

大正八年の「出獄の日の0氏」で、林倭衛の名前は、一躍、画壇ジャーナリズムに喧伝され、交友関係も広まるが、生来の酒飲みがさらに磨きがかかり、会合に出るといつも酒気を帯びていたと云う。根が神経質で、多感な性情の人であった。心の安まる友人を求めて、人が恋しくて堪らない毎日であった。

林倭衛の良き理解者だった山本鼎氏は「林倭衛君の画は暗鬱な重苦しい画の多いなかに際だって軽快に見える。物体はただ弱く表現されているが、それも蹉跌なく統一された画面は多くの人に好かれるだろう」と見事に林倭衛の絵の本質を突いた画評を述べている。これはまた林倭衛の人物評でもある。

渡仏した林倭衛氏、新しい芸術思潮の胎動に思い切り浸る一方で、親しい仲間と酒を飲み歩き、時にはパリ警察に留置される脱線劇もあったらしい。大正十二年には中国人に変装して、日本を脱出し、パリに現れた大杉栄とも再会している。大杉栄は関東大震災のさなかに惨殺されたが、異郷にあった林倭衛はこの知らせを聞いて、茫然自失し、しばらくは慟哭が止まらなかった。

ファシズムが吹き荒れようとする日本には、帰る気持ちになれず、大正十五年に一時帰国したが、昭和三年に再び渡仏している。この時に富子夫人は聖子さんを身ごもっていて、結局、再渡仏は、短い期間で終わった。

帰国した林倭衛は東京・小石川で親子三人の水いらずの生活に入る。酒豪は相変わらずだったが、帰国の年に春陽展の七点の作品を出品するなど、精力的な制作活動をしている。画風も簡潔さはそのままだったが、表現に深みが備わり、色調も落ち着いたものになっていた。

しかし時勢は、小林多喜二の惨殺に象徴されるプロレタリア文学運動の弾圧などすでに軍人が幅をきかせる戦時色が濃くなり、日本は無謀な太平洋戦争に向かって走り出していた。

この頃から林倭衛はよく旅に出ている。また房総の海岸にも出て、カンバスに海浜風景を描いたが、渡仏時代の南フランス・エスタックを想い出していたのではなかろうか。やがて房総の御宿に転居する。絵の具も酒も入手が難しくなる毎日が続き、林倭衛は心も身体も衰弱する一方だった。

太平洋戦争はすでに日本の敗色が濃厚となっていた。サイパン玉砕、東条内閣の退陣と破局に向っていた昭和二十年一月十日、林倭衛は浦和郊外で死去。敗戦の悲劇を見ずにこの世を去った。「軍人、役人 大馬鹿野郎!」と言葉が遺された。

叔父が尽力した「林倭衛展」は昭和四十二年、長野市の信濃美術館で開かれた。テープカットをした聖子ママはひときわ美しかったと叔父からハガキで知らせてきたのは、秋風が吹く頃だった。叔父が所蔵していた林倭衛の絵画は、上田市の山本鼎記念館に寄贈され、愛好家の目を楽しませている。人の一生はあまりにも短いが、その作品は永遠の重みを持って後世に伝わっている。
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