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バア「風紋」をめぐる人間模様(1) 古沢襄
私は六〇年安保から七〇年安保までの十年間、政治部の第一線記者として疾風怒濤の時代を夜討ち朝駆けの取材競争に明け暮れた。国会から夜七時ごろ政治部にあがり、打ち合わせをして夜中の十一時ごろ政界の実力者の自宅に「夜回り」と称する取材をかけるのが日課だった。

夜回りまで三時間ぐらい余裕があるので、新宿の伊勢丹にほど近い「風紋」という名前のバーで時間待ちの時を過ごすことが多かった。私たちよりは何歳か年上と思われる聖子さんと云う美人ママが看板の店で、出撃直前の時を過ごした。手伝いの女性たちもインテリ好みの垢抜けた美人揃いで、まだ二十七、八歳だった私にとってはまさに居心地の良い息抜きの場所だった。

聖子さんは三十歳前後だったろうか、まさに女盛りの美貌が目映いばかりだった。

集まる客筋もジャーナリスト、大学教授、新劇の俳優などで、新宿のこの一角だけは、安保騒動の激しい政治対立とは、全く無縁の静かな文化的雰囲気が満ちていた。風紋に通いつめるうちに、聖子さんは高名な映画監督との恋に破れたばかりだという噂も聞かされた。そんな悲恋を感じさせない位、明るく客をあしらうママの立居振舞いに魅せらて、私はますます風紋通いにのめり込んでいった。

そんなある日のことである。「ジョウ君、君は上田中学だって・・・」と突然、いたずらそうな顔をしたママに聞かれた。左様・・・私は風紋ではいつの間にか「ジョウ君」で通っていた。この問いかけは重要な意味を持っていたわけだが、したたか酔っていた私はいい加減な返事をして、その場はそれで終わってしまった。ママが長野県の上田に縁がある人だったということも迂闊にも知らずにいた。

一ヶ月ほど過ぎたころだったろうか、珍しく客が少ない日のことである。私の前に坐った聖子ママは「昨日、ジョウ君のお母さんと千代さんのところで麻雀をしたのよ」と云われて仰天した。何のことはない。私の母と聖子ママは、同じ上田の出身だった。千代さんとは、母の親友で文学仲間の古い付き合いである。この三人にもう一人が加わり、東京・中野にあった千代さんの自宅で、毎週のように麻雀を楽しんでいたわけだ。

まさにお釈迦様の手のひらに乗せられた孫悟空よろしく私は、母と聖子ママの監視下で毎晩のように飲んだくれていたことになる。世の中の狭さをこの時ほど思ったことはない。母はその頃、一人で世田谷・奥沢に住んでいた。

この話はまだ続きがある。母は士族の生まれで、曾祖父は廃藩置県によって失職したが、転業した「士族の商法」が当たった数少ない商家の出である。家付き娘で”上田小町”といわれた美貌の祖母は同じ長野県の上山田の素封家から養子を迎えている。

東京に遊学した祖父は、田舎の商家には馴染まなかったのであろう。大酒飲みで間もなく離縁となった。その時には祖母はすでに母を身ごもっていた。私の大酒飲みは、離縁となった祖父譲りのものかもしれない。

祖父が去った後に祖母は二番目にの養子を迎えて、母の弟を産んでいる。私から云うと叔父に当たるが、洋画の造詣が深く自分でも好んで油絵を描いた。やがて郷土が生んだ鬼才・林倭衛の作品の心を奪われ、蒐集した林倭衛の油絵を数十点にものぼっている。

林倭衛の絵を購入するために、上京して、銀座の日動画廊によく来ていた。田舎の商家で、平凡に一生を終わる寂しさを、好きな絵画の蒐集に没頭することで、まぎらわしていたのであろう。

叔父は年に何回か上京すると、奥沢の母のところに連絡してきたが、ある日のことだが、私の家に電話をかけてきた。「今晩、林倭衛の娘さんのところを訪ねたいので、時間の都合をつけて欲しい」と云う。その晩は、夜回りを休んで、久しぶりに叔父に付き合うことにした。

そして連れていかれたのが新宿の風紋だった。すべてを承知の母は、私には何も教えないのだから人が悪いと云えば、これほど人が悪いことはない。さらに叔父にも私が風紋に通いつめていることを隠していた。

母には、こういう変わった面があった。小説を書く意思を捨てなかった母は、聖子さんをめぐる人間模様が格好の生きた材料だったわけで、それがどういう展開を見せるのか興味に駆られていた。

「からくり」を教えてしまったら、案外つまらないめぐり会いの話に終わってしまう。姉と弟、そして息子が目に見えない細い糸で聖子さんに結ばれていた驚きと縁の深さが、どういうドラマを描くか、じっと見つめ、それを何時の日か自分の作品に織り込む意欲を持っていたのであろう。

風紋に向かう新宿のうら道を歩きながら、叔父から手書きの地図を見せられた。「風紋という名前のバーなんだがね」と叔父は云った。「風紋なら知っているよ」と私は答える。叔父は立ち止まった。「そりゃ好都合だ。そこに林倭衛の娘さんが働いている」「ママを含めて三人いるが、名前は何と云うの・・・」「聖子さんという絶世の美人だ」「何だって・・・」今度は、私が立ちつくして絶句する。

こんなやりとりの末に風紋にたどり着いた。叔父は聖子さんとは初対面だった。林倭衛の作品を数十点所蔵していた叔父が中心になって、信濃美術館で「林倭衛回顧展」を開くので、聖子さんに展覧会の開会日にテープカットをお願いしたいと云うのが叔父の上京の目的だった。さらに林倭衛の代表作「出獄の日の0氏」を聖子さんが所蔵しているので、その出品のお願いも兼ねていた。

私はただ驚くだけで、目の前に置かれたハイボールにも手がつかなかった。「ジョウ君はやけに大人しいのね」とママにからかわれたが、林倭衛の名前も初めて聞く有様で、借りてきた猫のように、叔父と聖子さんのやりとりを茫然として見ているだけだった。(続く)
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