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鬼才・林倭衛の”まぼろしの名画” 古沢襄
亡くなる時に「軍人、役人、大馬鹿野郎!」の言葉を遺した反骨の画家・林倭衛の出世作に「出獄の日のO氏」という作品がある。歴史に彩られた名作で遺児の林聖子さんの所蔵画だったが、今は郷里の長野県の美術館に展示されている。




「出獄の日のO氏」は”まぼろしの名画”といわれた。大正八年のことになる。秋の二科展に「出獄の日のO氏」が出展されることになったが、直前に東京検事局の係官が事前検閲にやってきて、検事控訴中のアナーキストの肖像画が展示されるのは好ましくないとして撤回命令を出している。

O氏とはアナーキスト大杉栄のことで林倭衛は親交があった。大杉は大正七年一月に「文明批評」誌を創刊しているが、林倭衛はそこに詩を発表している。かねてから大杉のアナーキスト運動に目を光らせていた警察は、大杉が移転した千葉県東葛飾郡葛飾村にまで警官の尾行をつける嫌がらせをしていた。

しつこい尾行に激高した大杉は駐在巡査と口論になって、巡査の右頬を殴ってしまった。唇を切った巡査は、これを口実にして大杉を船橋署に連行して詫びを入れさせている。この事件を東京警視庁は大杉検束の口実にしたのである。(小崎軍司「林倭衛」)

二科展が開かれる前に東京検事局は大杉を起訴、東京区裁判所が罰金五十円の判決を下したが、検事局はこの判決を不服として検事控訴。大杉は保釈金を積んで東京監獄から出所した。

その見舞いに駆けつけた林倭衛は、その場で大杉の肖像画を半日で描きあげている。それが「出獄の日のO氏」である。東京検事局の横槍に二科会は騒然となったので、時の岡警視総監が会場に行って、撤回の必要はないと釈明する一幕もあったが、裏では二科会幹部に圧力をかけて、林倭衛が自ら出展を辞退する結末をみている。

日本の近代美術史上、思想問題で権力が介入した初の事件である。これを伝え聞いたマスコミが大きく取り上げたので、皮肉なことに林倭衛は新進画家として一挙に有名となり、「出獄の日のO氏」は”まぼろしの名画”として世間の注目を浴びた。

この「出獄の日のO氏」が”まぼろしの名画”になったいきさつは、さらに興味深い話がある。画壇で認められるようになった林倭衛は、画才を磨くためにフランスに渡航することになった。大正十年のことだが、当局は渡航のビザを下ろす条件として「出獄の日のO氏」を世間の目に晒さない誓約書を林倭衛に書かせている。やむなく林倭衛は誓約書を書いてフランスに旅立った。

それ以来、一時は内務省警保局長だった唐沢俊樹の所蔵画だった時期もあるが、敗戦後まで遺児の林聖子さんが秘かに所蔵している。”まぼろしの名画”が「出獄の日のO氏」として世間の前に現れたのは戦後のこととなった。

私が林倭衛に詳しいのは母の実家が長野県上田市だった縁による。林倭衛は上田市で零落した士族の次男の子として生まれている。明治二十八年六月一日のことである。郷土画家に関心を持った母の実弟・木村金一郎(故人)は、早くから林倭衛の絵を蒐集して、その数は数十点に及んでいる。林倭衛の絵の蒐集家としてはナンバー・ワンといわれた。

母はまた遺児・聖子さんと親しい仲で毎週のように麻雀を囲んでいた。私はまた聖子さんが出した東京・新宿のバア「風紋」の常連であった。母も叔父も亡くなったが、聖子さんはまだ健在である。世の中には、こういう不思議な縁というものがある。
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