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八月十九日の密約説 古沢襄
瀬島龍三氏が九月四日、老衰で亡くなった。九十五歳。シベリアに抑留された旧日本兵の家族や遺族たちにとっては、複雑な思いがあるだろう。私もその一人である。瀬島氏は満州で敗戦を迎えている。肩書きは関東軍参謀、陸軍中佐であった。

関東軍の終焉については作戦参謀だった草地貞吾陸軍大佐の「草地貞吾回想録」(芙蓉書房)がある。十一年半のシベリア抑留でスターリンの日本人赤化教育に屈せず、毅然として志操を守った人物。

敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を八月十九日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。

この八月十九日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。「瀬島龍三 参謀の昭和史」(文春文庫)の著者である保阪正康氏は、文庫版のための追記で「瀬島氏への疑問は一点に収斂される」として‖臻椡鳥暇鼎箸靴童譴辰討かねばならぬ事実関東軍参謀としての自らの役割昭和20年8月19日のソ連側との停戦交渉づ豕裁判でのソ連側証人に選ばれた経緯ゾ校の民主化運動を指揮した事実・・・を挙げた。

しかし瀬島氏は、これらについて口をつぐんで語らなかった。一番の疑惑は8月19日の停戦交渉で、関東軍の捕虜をシベリアに送り、使役につかうことを容認したという疑いである。

ソ連側の脅しに屈しなかった草地氏は”反動”の折り紙をつけられて、ソ連の監視兵と日本側の民主化グループから、手厳しい暴力を四十人の仲間と一緒に受けている。

共同通信社社会部編の「沈黙のファイル」(新潮文庫)は「瀬島龍三とは何であったか」の副題がついている。

この中で1954年2月5日に元関東軍参謀・志位正二(陸軍少佐)が「自分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭してきたことが書いてある。ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、日本におけるソ連のエージェントとして志位ら三十六人の存在が明らかになった。

志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なものである。日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係を結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。ソ連から帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりいる。

その一方で反動の折り紙をつけられた草地氏のような元高級将校も数多くいた。瀬島氏はハバロフスクの第十六収容所の21分所に収容されたが、約六百人の団長になって、ソ連当局との交渉役であった。「ある程度ソ連の言うことを聞いて、健康な身体で帰国しよう」と説得していたとの証言がある。

ロシア国防省中央公文書館に一枚の軍事機密暗号電報が保存されてある。発信時は敗戦十二日後の八月二十七日。関東軍から大本営参謀次長・河辺虎四郎宛のもので「原子爆弾保管の件、長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子爆弾ヲ速ヤカニソ連大使館内ニ搬入保管シオカレタシ」。起案責任者は瀬島龍三となっている。

長崎に落とされた原爆の不発弾が存在したのか、今もって謎である。明らかなのは瀬島電報がロシア国防省中央公文書館に保存されていることである。これについてソ連軍の元通訳のチタレンコが手記を残している。「瀬島氏の名前は正確には覚えていない。だが彼は明らかにソ連軍司令部に日本から不発の原子爆弾を受け取るよう提案していた」と記していた。

彼は言ったという。「日本を占領するのは米国であろう。米国が原爆を独占したら、日本は植民地として二度と立ち上がれない。原爆がソ連にもあれば、日本は近い将来、大国間でしかるべき地位を占めることができる」と。この「彼」は瀬島氏ではなかった。後に大本営参謀だった朝枝繁春中佐だったと分かった。電文は関東軍作戦主任の瀬島参謀に頼んで打電して貰っていた。

実は不発原子爆弾は存在していなかった。長崎の原爆が投下された時に、米軍は落下傘で高層気象観測装置のラジオゾンデを三個投下していた。これが不発原子爆弾と誤認された。もっともラジオゾンデは進駐した米軍が接収したので、米側の話を信用するしかない。

ソ連抑留から瀬島氏は1956年に帰国した。二年後に伊藤忠商事に入社、その後の活躍は山崎豊子氏の小説「不毛地帯」の主人公・壱岐正中佐として華麗に描かれている。中曽根元首相のブレーンとして土光臨調委員にもなった。

戦後の軌跡が栄光の輝きを持っただけに、これに反発する旧軍人の間には、八月十九日のソ連軍との停戦交渉で、瀬島氏が関東軍の捕虜のシベリア抑留と使役を申し出たという密約説が消えない。
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コメント
コメント感謝します(^O^) 草地大佐 たしかに赤に染まらず立派な面もあったようですが 反面 抑留者の方々の訴訟を妨害したとゆう 晩年はマイナスイメージになったのですね 婦人宛の手紙に「兵隊は消耗品だ」と書いてたのが明らかになったり 私てきには皆清濁玉石混合な感じです(≧∇≦)草地大佐は初代の日本銃剣道連盟会長もされてましたが 師範たちは あんまり話題にしてなかったなあ(?_?)戦後生まれの私のような部外者には判らない何かがあったのかもでしょうか
| ひろし | 2009/11/03 1:23 PM |
はじめましてこんにちは 大阪のひろ47才元自衛官です 瀬島中佐や草地大佐等興味のあるものです 色んな説があるから誰が善で誰が悪か 決められない感じですね 皆 清濁混ぜあわせかも(?_?)私 30半ばまで とある銃剣道場に通ってまして 師範のかたが10人以上おられましたが 八割くらいの方がシベリア帰還者のようでした 酒の席では今村大将や山田大将の話しがよく出てました(^O^)師範には佐官クラスの方や師範学校の銃剣道教官の方もいました 瀬島中佐や草地大佐もよく知ってるみたいだったから抑留の件と抱き合わせで不遜にも質問したのですが 皆 あまり話しをしたがらない感じでした(≧∇≦) 占領地で日本はほんとに悪行ばかりしてたのかも聞いてみました が 占領地では中国人の友人の家に食事に行ったりしてた そうです 警備は中国人警察官も一緒にしてたそうです 師範学校の教官の方が言うのは 町では日本人の子も朝鮮人の子も一緒になって遊んでた と敗戦と新八路軍が出てからおかしくなったみたいな感じでした マスゴミや左翼教師だけの情報では不十分かも。南京30万虐殺も 言葉だけで 中国政府は南京郊外を掘り起こして人骨出したり証拠出せないですもんね ポーランドのカチンの森では二千人のポーランド将校の人骨が 掘り返したらザクザク出てきたそうですね これ長い間ドイツが殺害した事になってましたがペレストロイカ時にソビエトがカミングアウトして これは実はソビエト軍が殺害しました と 認めてました
| ひろ | 2009/11/02 1:04 PM |
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