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小田城趾と北畠親房 古沢襄
茨城県つくば市小田にある小田城趾は、今なお広大な遺構を残している。筑波山系の宝篋山(ほうきょうさん)南西麓にある中世平城だが、陸奥国小田郡を発祥の地とする小田氏が常陸国筑波郡に入り、やがて、この地に城を築いて勢威をふるっている。

元弘三年五月、後醍醐天皇による建武の中興に際して、小田氏はいち早く新政権に参画している。いわゆる南朝派の東国武士団のさきがけとなった。建武の中興が挫折して、高師冬を大将とする足利尊氏軍に囲まれたが、京都から公家の北畠親房を迎えて小田城を守った。(常陸合戦)

その北畠親房は後醍醐天皇の薨去を知って、小田城で南朝の正統性を示す歴史書「神皇正統記」を書いたのは有名な話である。小田城趾には「神皇正統記起稿の地」の石碑が建っている。

しかし北朝軍の猛攻に小田城は支え切れずに降伏している。北畠親房は逃れて関城に移った。「神皇正統記」は神代から後村上天皇の即位までを記した歴史書なのだが、宋学の影響を受けて、君子の徳の必要性を強調しているという。

私は「神皇正統記」を読んでいない。むしろ「梅花論」や「源威集」の方に興味を持った。北条氏が滅びて足利氏が政権を握る室町時代は、武家が公家に代わって実権を握る過程であり、大陸から積極的に文化を導入した絢爛たる時代であった。

「神皇正統記」にはアンシャンレジーム的な先入観があって敬遠した。食わず嫌いといわれても仕方ない。だが「ウィキペディア(Wikipedia)」によると‐亀廚陵陲魄き起こした後鳥羽上皇は非難され、逆に官軍を討伐した北条義時とその子北条泰時のその後の善政による社会の安定を評価して、「天照大神の意思に忠実だったのは泰時である」と記しているという。

また源頼朝は勲功抜群だが、天下を握ったのは朝廷から見れば面白くないことであろう。(中略)天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじたのは頼朝であり、実朝が死んだからといって鎌倉幕府を倒そうとするならば、彼らにまさる善政がなければならない・・・とも言っている。

8綢藐鐡傾弔寮策にも「正理」にそぐわないところがあると批判的な記述があるという。公家が徳治政治を大切にする思想を持っていたとすれば、「神皇正統記」は現代でも、新たな視点で再評価する価値があるのではないか。食わず嫌いは、やっぱり良くない。
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