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ニイノ・アキノの死 渡部亮次郎
8月21日はフィリピンの政治家、通称・ニノイ・アキノがマニラ国際空港で暗殺された日だった。事実上の独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったベニグノ・アキノはマルコス政権の最大の脅威にして、大統領の最強のライバルであった。

当然、独裁政権を誇るマルコスに疎まれて、アメリカにのがれてた。それでも帰国したところをマニラ国際空港で暗殺されたのだった。祖国の土は踏めなかった。

だからこそ、ニイノの死は、僅か3年後、人民革命によりマルコス政権が崩壊の起爆剤と化し、ニイノの妻コラソン・アキノ(コリー)が一気に大統領就任へつながって行ったのである。

既に悪名の方が高かったフィリピン大統領マルコスとその夫人イメルダにマラカニアン宮殿でお会いしたことがある。1979年5月9日、大統領公式晩餐会に、指定された白のタキシード着用で出席した。園田直外務大臣秘書官としてだった。

イメルダはフィリピン共和国第10代大統領フェルディナンド・マルコス夫人というより自らも政治的実権を振う人として世界に轟いていたが、香水のあまりのきつさには閉口した。

マルコスは1917年9月11日弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員だった父親と教師の母との間に4人兄弟の2番目として生まれた。祖先はフィリピン人・中国人・日本人の混血とされる。

司法試験はトップで合格。戦時中、フィリピンはマッカーサーの下にあったが、1942年1月、日本軍がマニラを無血占領した際、マルコスは辛くもバターン死の行進から脱出している。

こうした、マルコスの抗日ゲリラ活動での活躍は、後の政治的成功の大きな要因となった。しかし、後に明らかになった米国公文書館の記録によれば戦時中の活動は極僅かもしくは全く無かったとされている。

1946年から1947年まで、マニュエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年から下院議員に当選、その際の選挙コピーは「投票日に、あなたの下院議員として私を選出してください。そうすれば私は20年で大統領となります」であった。1959年には上院議員に鞍替えし1962年から1965年まで上院議長を務めた。

1954年にイメルダと結婚、2人の間に3人の子供に恵まれた。長女で現在もフィリピン下院議員を勤めるアイミー・マルコス。長男でイロコス・ノルテ州知事のフェルデナンド・マルコスjr。それに次女のアイリーン・マルコスである。

なお、2004年に、シドニーの新聞がマルコスと水着モデルとの間に1971年生まれの娘がいたとする報道の他、マルコスには17人の非嫡出子がいるとの噂が有る。

1965年の大統領選挙では党の候補者指名を求めたが果たせず離党しフィリピン国民党に入党、同党の大統領候補として副大統領候補のフェルデナンド・ロペスと共に大統領選挙で地滑り的大勝を果たす。

マルコスの政策は、国内の地方開発と徴税機能の強化であり、在任中に強靭な経済を作り上げることを公約した。実際に失業率は1966年から1971年までに7.2%から5.2%に減少した。また、国内産業の工業化と西側自由世界の貿易自由化を推進した。

1970年1月から3月にかけて「第1四半期の嵐(First Quarter Storm)」と呼ばれる学生運動に端を発した暴動の増加や、新人民軍の爆弾テロによって国内の政情は不安定となる。マルコスは、一連の暴動を共産主義の脅威として警告し「共産主義者が徘徊し、人々の殺害と女性たちのレイプを起こして、卑怯に国を破壊する」と主張した。

そして、1972年9月21日に、「布告No.1081」によって、フィリピン全土に戒厳令を布告した。この戒厳令により1935年憲法は停止され、独裁政権への道を開くことになる。1973年には戒厳令の布告中に、大統領職と首相職を兼任することを認める議院内閣制の新憲法を制定、さらに1976年には暫定議会選挙まで両職を兼任できるように憲法改正を行う。

戒厳令布告から解除される9年間に兵員23万人の国軍は3倍に規模が拡大した。また、同時に何千という民兵団が組織された。マルコス政権下における軍事的なサポートは、Rolex 12.と呼ばれる側近たち、中でも中枢を牛耳ったのが、情報機関のファビアン・ベール、国軍参謀部のフアン・ポンセ・エンリレ、警察部門のフィデル・ラモスであった。もっとも、1986年のエドゥサ革命では、エンリレとラモスは反マルコス陣営に寝返ることになる。

1983年8月、野党勢力の中心人物でアメリカに亡命していたベニグノ・アキノが帰国時にマニラ空港で暗殺された事は、フィリピン経済に大打撃を与えた。続く国内での反マルコス・デモの頻発に象徴される政治的問題は海外からの観光客や、外資参入を敬遠させた。翌年には経済のマイナス成長が始まり、政府の振興策も効果が無かった。失業率は1972年の6.30%から1985年には12.55%まで増大した。

さらにマルコス政権末期、彼自身の腎臓疾患の為に政務に支障が生じ、閣議に欠席する日が続く。イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになり、取り巻きたちは、バターン原子力発電所建設に象徴される意図的に杜撰なプロジェクト等で汚職を繰り返した。

アキノ暗殺事件では、多くのフィリピン国民がマルコス自身が関与していないにせよ、隠蔽工作には関わっていると考えていた。1985年に暗殺事件の容疑者として起訴された国軍参謀総長ファビアン・ベール大将らの無罪判決は、裁判の公正性への疑問と共にこの考えをより強くさせるものだった。

1984年までに、事実上の後見人であるロナルド・レーガン米国大統領は、マルコス政権に距離を置き始めた。同盟国からの圧力の結果、マルコスは大統領任期が1年以上残っている状態で、1986年に大統領選挙を行うことを余儀なくされた。野党連合は、ベニグノ・アキノの未亡人、コラソン・アキノを大統領選挙の統一候補とした。

1986年2月7日に行われた大統領選挙では、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利したと示したものの、中央選挙管理委員会の公式記録はマルコスが160万票の差で勝利したと発表した。

マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、アメリカ政府、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会からの非難を浴びた。

結局、2月22日選挙結果に反対するエンリレ国防相、ラモス参謀長らが決起し、これを擁護する人々100万人がマニラの大通りを埋めた。2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した(エドゥサ革命または人民革命)。

1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。
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