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武勇に勝る知略 古沢襄
長野県と接する県境の新潟県南部に住む人たちのルーツを辿ると北信濃から移住した者が数多くいる。その多くは武田信玄の信濃攻略戦から逃れて上杉謙信を頼ってきた人たちの末裔である。

北信濃の雄であった村上義清は数多くの合戦で武田勢に痛烈な打撃を与えたが、武田武将となった真田幸隆は調略をもって村上武将の切り崩しを計った。武略と知略の競い合いで、大軍を擁した武田晴信が落とせなかった村上方の拠点・砥石城を、幸隆はほとんど一兵も失わずに手中にしている。

砥石城には幸隆の弟・矢沢総重が三百の佐久衆を率いて入城していた。このほか山田国政(城主)、吾妻清綱の武将も入城していたが、三者の仲は必ずしもよくなかった。幸隆は晴信に「砥石城を金で買う」と申し出る。晴信は「金で城が買えるなら、それほど安いことはない。すぐ買うがよいぞ」と甲斐金山から得た金を幸隆に与えている。

幸隆は地縁、血縁をたどって砥石城に籠もる武将に金をエサにして武田方に寝返る”一本釣り”に精を出した。武田軍に怨念を抱く佐久衆に対する工作は入念だったという。いつの世でも一本釣りは効果的な攻略法である。現代でも政治の世界では一本釣りが屡々行われている。当代一の釣り師は引退した野中広務氏でなかったか。

砥石城内は山田国政、吾妻清綱が矢沢総重と争い、両軍が入り乱れて戦う事態になった頃合いをみて幸隆の真田軍は矢沢救援の旗を掲げて入城している。この間、村上義清は為すすべなく傍観している。砥石城が落ちた知らせを聞いた晴信は「次の戦う相手は村上ではない。越後の上杉謙信となった」と呟いたという。そして甲斐から諏訪を経て北信濃に至る軍用道路の工事に着手している。

天文22年(1553)夏、晴信は大軍を率い軍用道路を北上して、村上義清が守る北信濃に入った。義清は謙信を頼って越後に越後に落ち延びていった。謙信は義清の武勇をめでて根知城を与え、義清と嫡男の国清は上杉家臣となる。この国清は謙信の養子に迎えられて山浦姓を名乗り、上杉家第二位の地位を与えられている。

晴信が言ったように主敵は上杉謙信となった。永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いで、上杉家臣となった義清は信玄の陣に迫り、信玄の弟・武田信繁を討ち取っている。自ら先陣を切って敵に突撃する義清の武勇は変わらない。信玄が病死する前の元亀4年(1573)1月1日に義清は越後根知城で病死。享年73歳であった。
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