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小雪舞うクレムリン 渡部亮次郎
「ロシアのプーチン大統領がイーゴリ・イワノフ安全保障会議書記(61)を解任したのは、気になるニュース」という先輩・古澤 襄さんの論を読みながら、嘗て訪問したモスクワのクレムリンに頭が行った。

アメリカとの戦争に敗けた後、しばらく同じ夢を見て汗をかいた。秋田の実家のゴボウ畑の陰からロシア兵が鉄砲を向けて走って来る夢だった。兵隊は時々、ナチに変わった。

これは本人なりに分析すれば、敗戦の結果、北海道と東北はロシア(当時はソ連)に分割占領されるらしい、恐ろしい事になる、と大人たちが囁きあっているのを耳に挟んだ事による。

私の祖父は日露戦争でラッパ手だった。戦争の辛かった事は遂に一言も語らずに死んだもののロシアの怖さをなんとなく語っていた。或いはスパイ小説でロシア人の剛直さを知った。

長じて記者になっても外国特派員になる心配はなかったが、ひょんなことから41歳の時、外務大臣の秘書官に発令されて、最初に訪問したところがソ連の首都モスクワのクレムリンだったので、内心、動転したものである。

それは1978(昭和53)年1月11日[(水)午前10時(現地時間)のことだった。モスクワ郊外レーニンが丘の第1号迎賓館から何台かの車で出発したのだが、途中、車道の雪かきをしているのが、皆、女性なので驚いた。

物凄く広い通りがあった。日本大使館員の解説では、ブレジネフ議長が通る専用道路。大変なスピード気違いとのこと。それにしてもエレベーターなら聞いた事があるが、独裁者は道路まで専用とは。

クレムリンの門をくぐった。スパイ小説の読みすぎ。「おれは果たしてこの後、無事に帰れるだろうか」。小雪が舞っている。その向こうに男女の長い列。靴はボロボロ、オーバーは擦り切れている。

ははぁ、これはトルストイ描くところの「農奴」だ。とんでもない事を仰らないで下さい、これが模範的なモスクワ市民です。一世一代、クレムリンを見学に来たのです。日本人は皇居に行くときはおしゃれをして行くがなぁ。

要するに貧しいのだね。何のための共産主義なのか。これが欲しくて日本でも共産党や社会党をやっているのか。この一事を見ただけでやめると言い出すのではないか。

彼らは男女とも何故か目の縁が赤く爛れている。この理由は聞けないまま首相(コスイギン)の執務室のある宮殿へ。どうしたわけか裏口から急ごしらえの木造の階段を登って2階へ。

クレムリン(露:Кремль、Kreml正しくはクレムリ)とは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。

ソ連時代には、ソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。

ロシア語では「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。

しかしながら、日本語では、単にクレムリンと言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらの中でも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や寺院が林立している。

さっとドアが開いて「どうぞ」老人の大男から握手を賜った。それが首相コスイギンだった。園田直外務大臣の希望したブレジネフ議長は風邪で臥せっていて面会できず。コスイギンが最高位の会談相手だった。嘗ての中国の張春橋のように軟らかい手だった。

アレクセイ・ニコラエビッチ・コスイギン(Алексей Николаевич Косыгин、Aleksei Nikolaevich Kosygin、1904年2月21日―1980年12月18日)は、1964年から1980年までソ連首相を務めた。

これに先立ち1964年宮廷クーデターともいえる手段でニキータ・フルシチョフが失脚し、これに伴い、同年10月後任のソ連首相に就任した。

コスイギンは陰謀とは無縁な潔癖な政治家で、フルシチョフ追放の計画について直前まで知らされていなかった。計画を知らされたコスイギンは、KGBがバックにいることを確認した後に、計画に賛同した。

コスイギンは、ソ連共産党中央委員会第一書記(のちに書記長)に就任したレオニード・ブレジネフ、最高会議幹部会議長のニコライ・ポドゴルヌイと「トロイカ」と言われる集団指導体制を組む。西側からは、当初、「ブレジネフ・コスイギン政権」と表現されていた。

話が前後したが、我々の訪ソは日ソ外相定期協議のため。しかし領土問題は当然ながら一歩も前進せず、共同声明の作成も見送られた。「無理に作ろうとするな」という園田外相の判断からだった。

このことから同行した外務省の記者団からは「園田外相の初外遊は失敗」という記事を書いた記者も居た。当然である。園田外相とすれば領土問題が定期外相協議如きで前進するとは考えられない。

仮にブレジネフ議長との会談が実現すれば、何かの手がかりを得る事ができるのでは無いか、との期待があった。それが風邪で不能とあっては致し方なし。その事を新聞にはごく小さく載るように東京の締め切り間際を狙って私が発表に行った。朝刊にベタ(1段記事)で載った。

重光晶大使公邸にグロムイコ外相らソ連側だけでも24人を招いてすき焼き昼食会を開いた。甘ったるい牛肉は初めてだっただろうに、皆さんぺろりと平らげた。日本側をあわせ50人で神戸牛1頭分だった。

武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)の見学に案内された。クレムリンの南西、アレクサンドロフスキー公園に隣接している。設計は、クレムリン大宮殿と同じくコンスタンチン・トーンの手による。

武器庫とあるが、後に戦利品やロマノフ家の宝物を保管するようになり、1720年ピョートル大帝の勅令によって美術館となった。

コレクションには、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などがある。馬車は金ぴかだった。鉛精製の邪魔物として一旦は廃棄された白金の塊もあった。

また、明治天皇から贈られた鷲の彫刻(象牙製)も玄関脇に所蔵されていた。1891年(明治24年)5月11日、来日中のロシア皇太子ニコライを滋賀県の巡査津田三蔵(つださんぞう)が瀕死の重症を負わせた「大津事件」の際に謝罪の印として贈られたと聞いた。参照「ウィキペディア」2007・07・20
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